えん罪事件の真相を広め、裁判支援、在獄者の処遇改善運動をすすめています

「再審・冤罪事件と日本国民救援会」

連載「再審・冤罪事件と日本国民救援会」 山田善二郎

「再審・冤罪事件と日本国民救援会①」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や再審・えん罪事件全国連絡会と日本国民救援会との関係などを知りたいという要望がとても強くあり、本連絡会の代表委員でもある日本国民救援会中央本部会長の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただくことになりました。ご期待ください。今回は、その第1回です。

 1950年代から60年代にかけて、三鷹事件無実の死刑囚・竹内景助さんの再審と恩赦請求、松川・白鳥、芦別、青梅、メーデー、辰野、大須、吹田、菅生など、多くの弾圧や謀略事件の犠牲者が獄の内外で、深刻な裁判闘争をたたかっていました。
 その頃、仙台拘置所には、帝銀事件の平沢貞通、島田事件の赤堀政夫、松山事件の齊藤幸夫、牟礼事件の佐藤誠さんなど4名の死刑囚が、広島では八海事件の首謀者とされた阿藤周平ら4人の青年が無実を訴えていました。また熊本のハンセン病患者の強制収容施設・「菊池恵風園」では、死刑判決が確定した藤本松夫さんが無実を訴え再審を求めていました。

「松川」から冤罪事件支援へ

 北海道から四国、九州にいたる各地の裁判所で、多くの冤罪事件の犠牲者が無実を訴えていましたが、しかし、冤罪事件に対するマスコミの関心は、今日のように強くはありませんでした。松川事件など弾圧事件の報道にいたっては、犠牲者である被告人らをことさら孤立させるような報道がなされていたのでした。こうした中で、50年12月6日、松川事件の被告に、死刑5、無期懲役5、10名に有期懲役合計95年の極刑判決が言渡されました。
被告団の獄中からの訴えをうけて、53年に雑誌『世界』が2月号で松川事件特集号を発行、作家・広津和郎氏や宇野浩二氏らが、中央公論と文芸春秋で松川事件を訴えるなど、支援の世論が広まりを見るようになってきました。
 松川事件の支援運動が全国的に発展してきたころ、山口県で発生した殺人事件・八海事件の首謀者として死刑判決を受けた被告人・阿藤周平さんらから、自由法曹団と日本国民救援会に支援の訴えが寄せられた。
 地元広島で一審いらい弁護に当たっていた自由法曹団の原田香留夫弁護士に加えて、松川事件の主任弁護人岡林辰夫弁護士や関原勇弁護士らが弁護団に参加しました(日本国民救援会の救援学校テキスト『いつの時代もたたかう人びととともに』45頁参照)。
当時の国民救援会の組織は、今日のように強大ではありませんでしたが、救援募金を訴えるなどして、現地調査やオルグ派遣、保釈された稲田さん(後に東京都本部の専従として活動)を東京に招くなど、組織を挙げて支援しました。独立プロの今井正監督による映画『真昼の暗黒』が社会に大きな反響を与えました。

島田・菅生・帝銀の支援始まる

 1954年3月、静岡県島田市発生した幼児殺人事件・島田事件では、自由法曹団の弁護士が無実の死刑囚・赤堀政夫さんの弁護人に参加し、松川事件を支援していた活動家が、対策協議会を組織して救援活動を開始しました。
 宮城刑務所仙台拘置所に拘留されていた松川事件の犠牲者は、55年10月宮城県松山町での1家4人惨殺放火事件の犯人として死刑判決を受け、最高裁に上告した斉藤幸夫氏を激励し、救援会宮城県本部もまた、支援を全国に呼びかけたのでした。
 福岡拘置所では、52年大分県・菅生村で共産党弾圧のために警察が仕組んだ交番爆破事件、菅生事件の犯人とされた被告達が、48年12月、熊本県人吉で発生した殺人事件の犯人として死刑を宣告された免田栄氏が収容されていることを知り彼を激励、救援会福岡県本部が救援運動を全国に呼びかけました。
 48年に東京・豊島区で発生した毒薬による殺人強盗事件・帝銀事件の犯人として死刑が確定した平沢貞通氏の再審には、自由法曹団の竹沢哲夫弁護士が弁護団に加わり、国民救援会の難波英夫会長は、「平沢貞通氏を救う会」の幹部の一人として、支援運動を支えました。(1968年、難波英夫元会長は、理論社から、『死を見つめて=無実を訴える9人の手記』を発行、死刑囚の救援を広く呼びかけました。これには、帝銀事件・平沢貞通、免田事件・免田栄、三鷹事件・竹内景助、牟礼事件・佐藤誠、八海事件・阿藤周平、島田事件・島田政夫、松山事件・斉藤幸夫、狭山事件・石川一雄、仁保事件・岡部保氏らの無実の訴えと裁判の問題点などが詳細にかかれています。)

冤罪事件支援が国民の中に

 このように松川事件をはじめとした弾圧事件の裁判闘争の大衆的発展が、冤罪事件の犠牲者救援運動を促し、それが相互に関連しあいながら人権と民主主義のためのたたかいとして、国民の中に広がってきたのです。
 ところで、人びとが冤罪事件に目をむけ始めた頃の1962年9月、驚愕的な権力による殺人事件が引き起こされたのでした。無実の死刑囚藤本松夫さんの絞首刑がそれです。(続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会②」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や再審・えん罪事件全国連絡会と日本国民救援会との関係などを知りたいという要望がとても強くあり、本連絡会の代表委員でもある日本国民救援会中央本部会長の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただくことになりました。今回は、その第2回です。

 1950年代から60年代にかけて、三鷹、松川・白鳥、芦別など、多くの弾圧や謀略事件の裁判闘争がたたかわれていた頃、帝銀事件、島田事件、松山事件、牟礼事件、八海事件などの当事者が無実を訴えていました。
しかし、冤罪事件に対するマスコミの関心は、今日のように強くはありませんでした。
 そんな中、当事者からの支援の訴えなどを受けて、当時の国民救援会は、救援募金を訴え、現地調査やオルグ派遣など、組織を挙げて支援しました。
松川事件をはじめとした弾圧事件の裁判闘争の大衆的発展が、多くの冤罪事件の犠牲者救援運動を促し、それが相互に関連しあいながら冤罪事件の支援運動が国民の中に広がっていきました。
ところで、人びとが冤罪事件に目をむけ始めた頃の1962年9月、驚愕的な権力による殺人事件が引き起こされたのでした。無実の死刑囚藤本松夫さんの絞首刑がそれです。(以上、第1回の概要)

※ 藤本事件とは
 この事件は、ハンセン氏病患者として熊本県の菊池恵楓園に強制収用されていた藤本松夫さん(29才)が、殺人事件の犯人だと断定されて死刑確定、再審請求中に処刑された事件です。
1951(S26)年8月、熊本県水源村(現菊池市)で、発生した傷害事件の容疑者として藤本さんが逮捕・起訴、彼は犯行を否認したが懲役10年の判決を受けました。控訴中の52年6月、普通の健康人と何ら変わらなかった彼は、最愛の一人娘に会いたくて、ハンセン氏病患者だとして収容されていた国立ハンセン病療養所を脱出し、7月13日に発見され収監されました。彼が脱走中の7月7日、殺人事件が発生、容疑者と目された彼は、肉親の目の前で、警察官にピストルで撃たれて逮捕され、療養所内に設けられた特設法廷で裁判を受けたのです。検事は、証拠品だとして、鉄の火箸でワイシャツ犯罪行為の中から取り出したし、裁判長も鉄の火箸でそれを挟んで確認する。たまりかねた藤本さんが、わしのシャツじゃなかです」と手に触れようとしたら、検事は、「触るな不潔だ」と、ワイシャツを翻し、裁判長は手にした火箸で犬やネコを追うような手つきで「被告、席へ戻りなさい」と言ったというのです(熊本民主門種文学『鋭く“いま”を問いかけるもの』 冬俊之著・小説『藤本事件』より)。
 このような予断と偏見に満ちた裁判で、53年8月29日死刑が宣告、57年8月23日、最高裁の上告棄却により死刑が確定しました。この年の11月、全国のハンセン氏病患者の組織・全患協が中心になって、日本国民救援会、労組,民主団体,作家等各界の有志133人が発起人となり、「藤本松夫さんを救う会」を組織し、再審請求と助命嘆願運動をはじめました。自由法曹団の関原勇先生が、主任弁護人として、手弁当で親身になって活動し、藤本さんの無実を示す新たな事実が明らかになってきたのです。
 ところが、62年9月14日、私たち救援会中央本部と東京都本部の専従者が、奥多摩の五日市のある寺で合宿会議を開いていたそこに、坂本久夫さん(謀略菅生事件で弾圧されて、二審で無罪確定、のち救援会の専従として活動)から、藤本さんが福岡拘置所で処刑されたという緊急電話が入りました。再審請求中は処刑しないと語っていた中垣国男法務大臣が、9月11日、死刑執行を命令、2日後の13日、熊本地裁が再審請求を棄却、翌14日、藤本さんは、即時抗告などの法的権利を奪われて、処刑されたのです。この経過は、飯沼勝男さんが五日市の会場から法務省に急行して刑事局の係官を問い詰めて、明らかにされたのでした。処刑を聞いた藤本さんは、教誨師を断り、昼食も採らず、処刑前のお茶、菓子、タバコなど全てを拒否して、処刑台に上がったとのことでした。
 知らせを受けた関原弁護士は福岡へ飛んで坂本さんと合流し、藤本さんの実弟と菊地恵楓園の患者代表など6人で、福岡刑務所に藤本さんの遺体を引取りにいきました。
 彼の首には、絞首刑で締め付けられた赤黒い縄が食い込んだ後があり、回りも赤黒い浮腫(ふしゅ)が残っていたとのことでした。(救援新聞第66号に関原弁護士の記事あり)

 藤本さんの死刑執行は、無実を訴えていた死刑囚とその家族や救援運動関係者に対する、ものすごい衝撃でした。9月25日、日本国民救援会中央本部が呼びかけて、帝銀・三鷹、松山、免田など死刑確定事件の支援団体と支援者が集まり、「死刑確定事件連絡会」を組織しました。そして、法務大臣への抗議と死刑執行阻止の統一行動や、再審請求諸事件の犠牲者のための運動や経験の交流を申し合わせました。これが、今日の「再審・えん罪事件全国連絡会」を作った、貴重な始まりといえるのではないかと思います。 (続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会③」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や「連絡会」と日本国民救援会との関係を知りたいという要望があり、本連絡会の代表委員でもある日本国民救援会中央本部会長の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただいています。今回は、その第3回です。

 1950年代から60年代にかけて、松川・白鳥など多くの弾圧や謀略事件の裁判闘争がたたかわれていた頃、八海事件などの冤罪事件の当事者が無実を訴えていました。その訴えを受けて、当時の国民救援会は、組織を挙げて支援しました。松川事件をはじめとした弾圧事件の裁判闘争の大衆的発展が、多くの冤罪事件の犠牲者救援運動を促し、それが相互に関連しあいながら冤罪事件の支援運動が国民の中に広がっていきました。
 人びとが冤罪事件に目をむけ始めた頃の1962年9月、驚愕的な権力による殺人事件が引き起こされたのでした。無実の死刑囚藤本松夫さんの絞首刑がそれです。
 藤本さんの死刑執行は、無実を訴えていた死刑囚とその家族や救援運動関係者に対する、ものすごい衝撃でした。9月25日、日本国民救援会中央本部が呼びかけて、帝銀・三鷹、松山、免田など死刑確定事件の支援団体と支援者が集まり、「死刑確定事件連絡会」を組織しました。これが、今日の「再審・えん罪事件全国連絡会」を作った、貴重な始まりといえるのではないかと思います。(以上、第2回までの概要)

 この「死刑確定事件全国連絡会」は、藤本さんが処刑された62年9月14日から11日後の25日、国民救援会の呼びかけで、帝銀、三鷹、免田、松山、小松川、福岡など死刑確定事件の支援者約60名が参加して作られた緩やかな組織で、法務省への死刑執行阻止の要請や街頭宣伝、支援運動の交流などを行なうことを申し合わせました。当時の中垣国男法務大臣は在任中、じつに26名もの死刑執行を命じ、次の加屋興宣法相も12名もの処刑を命じたのです。
 この年の再審請求事件をめぐる裁判は以下のとおり、「昭和の岩窟王事件」と語られた吉田石松さんの事件以外は、ことごとく請求を棄却されたのです。
 9月11日=最高裁・帝銀事件第9次請求棄却
 9月13日=熊本地裁・藤本事件第3次請求棄却 14日死刑執行
 10月23日=徳島地裁・徳島事件第3次請求棄却
 10月30日=最高裁・吉田事件 異議決定取消し、再審開始決定(第5次)
 12月1日=東京地裁・牟礼事件第2次請求棄却

※ 吉田事件とは?
 1913(大正2)年に名古屋で発生した強盗殺人事件。逮捕された容疑者のウソの供述で吉田石松さん(33才)が首班として逮捕され起訴。一審死刑、二審で無期懲役となり大審院で確定。吉田さんは獄中から戦後の仮釈放後も繰返し再審を申立て、1961年名古屋高裁が再審開始を決定しましたが、翌年同じ高裁が検察側の異議申立てを認めて開始決定を取消し、吉田さんの特別抗告を受けた最高裁がようやく再審開始を認め、63年2月名古屋高裁で無罪となる。吉田翁はその半年後に84歳の生涯を閉じた。(注=名張毒ぶどう酒事件の再審開始取消し決定の先例)
                        
 この60年代は、北海道の白鳥、芦別、梅田事件などから、九州は菅生、免田、藤本事件など、全国の各地で深刻な弾圧事件や冤罪事件が引き起こされており、多くの犠牲者が獄の内外で裁判闘争をたたかっていました。国民救援会は、レッドパージなどの影響を受けて多くの加盟労組が脱退したため、組織の弱体化を余儀なくされましたが、精力的に弾圧犠牲者の救援運動に取組みながら、冤罪事件の関係者への支援に心がけたのでした。63年9月12日、最高裁が仙台高裁の差戻し無罪判決に対する検察側の上告を棄却し、15年の歳月を経て無罪を確定した松川のたたかいは、各地の再審・冤罪事件の関係者に力強い励ましとなり、国民救援会の支援も強まってきました。こうした過程を経て、『再審・えん罪事件全国連絡会ニュース』第29号で紹介したように、68年2月、難波英夫会長が理論社から無実を訴える9人の手記をまとめて〖死を見つめて〗を発行し、広く冤罪事件の支援を世に訴えたのでした。

 60年代の中ごろから、権力の民主勢力への攻撃の矛先は言論活動に向けられ、各地の裁判所で、公選法、国公法、道交法、軽犯罪法などを悪用した言論・選挙弾圧事件の裁判闘争がたたかわれました。これら事件の関係者もまた、裁判闘争を通じて冤罪事件の犠牲者への支援に力を寄せたのです。国公法弾圧事件の裁判闘争をたたかった塀本信之さんらは、裁判闘争終了後、国民救援会徳島県本部を組織し、徳島ラジオ商事件・富士茂子さんと遺族の再審闘争を支援しました。
 しかし、冤罪諸事件の裁判闘争は、検察側の不当な上訴や裁判所の予断と偏見のために、5回にも及ぶ裁判を強いられ、事件発生から17年もの歳月を経た後に、最高裁で3度目の判決でようやく無罪となった八海事件が示すように、冤罪事件の裁判は深刻を極めました。とりわけ再審請求事件は、「針の穴をラクダが通る」とたとえられるほど困難な裁判でした。
 この困難な課題を打開するための重要な契機となったのは、1973年4月14~15の両日、自由法曹団と国民救援会とが呼びかけて開催した、再審請求事件の支援団体の会議でした。この会議は、当時帝銀事件の再審請求弁護人として活動中の自由法曹団幹事長・竹沢哲夫弁護士が、国民救援会に提起して催された会議です。会議が仙台で開かれた主な理由は、当時、無実を訴え再審請求中の帝銀・平沢貞通、松山・斉藤幸夫、島田・赤堀政夫、牟礼・佐藤誠の4事件の当事者が、仙台拘置所に拘禁されていたからです。会議には帝銀、三鷹、白鳥、松山、島田、牟礼、デザイナー殺人(山川)など再審請求7事件の支援組織の代表と家族、および国民救援会中央本部、宮城、東京、神奈川、京都、兵庫、福岡の各県本部と北海道・函館支部の代表53名が出席しました。
 会議では竹沢弁護士が、「再審裁判の現状と問題点」と題して、死刑の恐怖にさらされながら獄中から無実を訴え再審を請求している事件関係者と、確定した有罪判決に固執し再審裁判を敵視する裁判所や検察の実情などを語り、再審事件の支援運動の強化を呼びかけました(『再審・えん罪小史』参照)。
次いで会議では、各事件の運動の経験を交流しあい、独自の活動を強化しながら相互支援を強化や在獄者の処遇改善などの共同行動を薦めるため、「再審事件全国連絡会」を結成し、国民救援会中央本部が事務局を担当することが決められました。

 その頃再審請求事件の裁判は、日本弁護士連合会の中でも重要な問題になっており、西ドイツ(当時)のチュービンゲン大学のカール・ペータース教授を招待して、同国の誤判事件に対する姿勢などについて研究することが議論されていました。ペータース教授は、政府の委嘱を受けて、西ドイツでの誤判の原因について、多くの具体的な事例に基づいて調査研究をした学者です。「再審事件全国連絡会」の各組織と国民救援会は、早速、全国にペータース教授招待のための資金カンパを訴え、再審請求中の白鳥事件弁護団を通じて日本弁護士連合会に提供し、ペータース教授の招聘実現を訴えました。
 講演会には、多くの現職裁判官や刑法学会の学者も参加して、ペータース教授の講演を耳にしました。この会ではまた、日本弁護士連合会を代表して竹沢弁護士が行なった、日本の深刻な再審の実情についての報告が、参加者に強い印象を与えたとのことです。その後最高裁判所裁判官となり、第一小法廷の裁判長として日本の再審裁判のあり方について画期をなした「白鳥決定」と「財田川」決定」に関わった日本刑法学会の団藤重光会長(当時)は、この講演会に参加して、ペータース教授や竹沢弁護士の報告を聞いていたのでした。
 白鳥決定の内容とその意義は、すでに広く多くの人びとに知れわたっていますから、ここでは省略し、次回に、この決定に至るまでの白鳥事件の支援運動の取り組みなどについて、紹介したいと考えます。 (続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会④」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や「連絡会」と日本国民救援会との関係を知りたいという要望があり、本連絡会の代表委員でもある日本国民救援会中央本部前会長の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件全国連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただいています。今回は、その第4回です。

 1950年代から60年代の弾圧・謀略事件の最中、冤罪事件の無実の訴えにも国民救援会は組織を挙げて支援しました。人びとが冤罪事件に目をむけ始めた1962年、再審請求中の無実の死刑囚・藤本松夫さんの絞首刑が行われました。この事件は死刑囚とその家族を含めた救援運動関係者に衝撃を与え、国民救援会中央本部の呼びかけにより死刑確定事件の支援団体と支援者による「死刑確定事件全国連絡会」が組織されました。しかし、冤罪事件の裁判は深刻を極めました。1973年4月、自由法曹団と国民救援会が呼びかけた再審請求の支援団体の会議で竹沢弁護士が再審裁判の強化を求め、国民救援会中央本部を事務局とした「再審事件全国連絡会」が作られました。
 当時、西ドイツでの誤判事件の研究の権威であったカール・ペータース教授が来日し、その講演会が実現しました。この講演会には、日本の再審裁判を画期的な変化をもたらした「白鳥決定」「財田川決定」に関わることになる日本刑法学界の団藤重光会長(当時)が参加していました。
(以上、第3回までの概要)

【再審の道を開いた白鳥事件のたたかい】
はじめに
 再審請求事件のなかで抜きんでたたたかいは村上国治さんの白鳥事件でした。このたたかいについては、谷村正太郎弁護士の著書『再審と鑑定』が非常に勉強になります。以下この著書から引用しながら書きます。
再審無罪の道を妨げる2つの「壁」 
 私たちが支援している刑事裁判は、どれ一つとっても困難な問題を抱えていない事件はありません。なかでも再審請求事件は最もむずかしい裁判です。それは、再審無罪を妨げる2つの壁があるからです。

第一の壁 刑事訴訟法第435条
 刑訴法第435条は、次のように規定しています。
再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡しをした確定判決に対して、その言渡しを受けたものの利益のために、これをすることができる。
 一 原判決の根拠となった証拠書類又は証拠物が確定判決により偽造であったことが証明されたとき。
 二 原判決の証拠となった証言、鑑定、通訳又は翻訳が確定判決により偽造であったことが証明されたとき。
 四 原判決の証拠となった裁判が確定裁判により変更されたとき。
 六 有罪の言渡を受けた者に対して無罪もしくは免訴を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。(三、五、七項は省略。傍線は筆者による)

 これまで国民救援会が支援してきた弾圧や冤罪事件の裁判のすべては、①代用監獄制度のもとで作られたうその自白調書、②他人の偽証あるいは、③無実を示す供述調書などの隠匿、④捜査当局に迎合した学者の科学を無視した鑑定や証言、⑤警察官の偽証などによって構成されています。
 こうした権力の犯罪的行為を、権力が自ら明らかにした事例は皆無であることは、大きな社会問題になった鹿児島・志布志警察署選挙違反でっち上げ事件が示しています。裁判所も同様、裁判所が犯した誤りを自ら進んで是正した事例はほとんどありません。冤罪を争う裁判の歴史を振りかえるならば、無実のものを有罪とした証拠や証言が、「確定判決により」偽証・偽造だったとした裁判があったでしょうか。尽きるところこの文言は「絵に書いた餅」以外のなにものでもありません。
 無罪・・・・・を言渡す「明らかな証拠をあらたに発見」という規定も、有罪と認定したすべての証拠を完全に覆すほど「明確な証拠」でなければならないと、極めて狭く厳格に解釈されていました。

第二の壁 裁判所の誤った権威主義
 再審事件は、裁判所が行った誤った判決を裁判所に認めさせる裁判です。真実と正義を守る裁判所だからこそ、誤った裁判を自ら正すことにより、裁判所に対するより強い国民の信頼が寄せられると考えるのが国民の常識です。だが裁判所はその逆で、裁判所の権威を守るためには、誤った判決であっても守り抜くべきだ、という姿勢をとっています。いくつかの事実を『再審と鑑定』の”白鳥決定30年を思う“から紹介します。
 ○ 確定判決に固執
 「判決により確定した法律状態は尊重されなければならない。判決が確定した以上、もはや適否を争い、または、それを変更することができないとすることが(いわゆる判決の確定力)、法的安定性の理念から要求される所以である。=略=再審請求理由とされるものは、・・・略・・・確定判決の理由をとうてい容認できないほどの十分な根拠をもつものでなければならない。」(名古屋高裁1959年7月15日)
 ○ 新証拠の価値をなるべく認めない
「確定判決につき再審請求人申し立てにかかる証拠のみによっても、再審裁判所をして罪の認定を覆して無罪を認定すべき理由明白なりと首肯せしめるに足る証拠物」(東京高裁1956年3月12日) 
 ○有罪を宣告した裁判官の立場を守る
「裁判所は、・・・原判決を言い渡した裁判官の立場に身を置いて考えなければならない。このことは原判決裁判官の心証=略=を引き継ぐことを意味するものである。」(ジュリスト267号(1963年) 藤野英一『刑事再審の動き』)

 再審の門を開かせるのは「針の穴をらくだが通る」とたとえられるほど困難な事業だと語られてきたのは、このように頑なな障害が、権力によって作られ進められていたからです。ですから、1975年5月20日、最高裁第1小法廷がいわゆる白鳥決定で「疑わしい場合は被告人の利益のために」という刑事裁判の鉄則は、再審請求事件にも適用すべきであるという画期的な決定を出すまで、帝銀、松山、島田、免田、徳島など、国民救援会が支援した再審請求事件はことごとく棄却され、藤本松夫さんは処刑され(62年9月13日)、三鷹事件の竹内景助さんは獄死(67年1月18日)、帝銀事件の平沢貞道さん(87年5月9日)、牟礼事件・佐藤誠さん(89年10月27日)など再審を求めながら獄中で命を失ったのです。獄中に閉ざされた冤罪犠牲者は、日々死の恐怖にさらされながら、先の見えない暗闇の道にかすかな光を求めるような思いで無実を訴え、国民救援会も再審の門を開かせるために、岸壁に寄せる波のように、裁判所の厚い壁をたたきつづけたのでした。

 そうした状況の中で、村上国治さんの白鳥事件のたたかいは、全国に支援運動を広げ、再審請求諸事件の牽引車的役割を果していました。
 白鳥事件のたたかいは、松川事件とともに日本の刑事裁判の歴史に残るたたかいでした。当初は孤立無援の状態を切り開き、ついに唯一の物的証拠とされた3発の弾丸は、同一のピストルから発射されたものではなく、当局のでっち上げであることを明らかにしました。それは、白鳥事件の真実解明のために文字どおり精魂をこめた弁護団と、中国など外国の協力も得るなどした、多くの科学者の活動による研究のたまものでした。日本刑法学会を動かした法律学者の努力や、日弁連が再審問題を重視し、西ドイツのカール・ペータース教授を招いて講演会を行うなど、白鳥事件は、法曹、学会、文化、芸術などあらゆる分野の共通の課題となっていったのでした。紙面の都合で、ここでは、大衆的支援運動に焦点を当てて簡潔に記述します。

 上告審に入って、金川三郎さん(現在国民救援会顧問)が、支援運動を全国に広めるために、札幌から家族を上げて上京、国民救援会中央本部の一角に小さな机をおいて活動を開始。各地に「村上国治を守る会」が組織され、62年3月16日、全国35団体により白鳥事件中央対策協議会(中央白対協)が結成(事務局長・金川三郎)されました。そして裁判所が上告を棄却したその日の夜、1万を越える人が日比谷公園に結集し抗議集会を開き、たたかい続ける決意を固めあいました。

 現地調査と激励面会の行動は、松川事件同様、支援運動発展の原動力でした。東京から夜行列車の普通車両で交流、青函連絡船で函館を経て札幌に。札幌では白鳥警部が射殺された現場で問題点をつかみ、2発の弾丸が発見されたという幌見峠では証拠捏造に確信を深める。次いで網走刑務所での村上さん激励・面会に向かう夜行列車内では、車座になって事件の学習と経験交流、翌日は刑務所で何組に分かれて面会と、刑務所長に処遇改善の要請の活動など。面会できない参加者は、刑務所の脇を流れる網走川の堤防から刑務所に向かって、激励のシュプレヒコール。東京からでも4泊5日を要する大規模な現調が回を重ねるにつれ、たたかいの火種は壮大な炎となって広がり、第一小法廷の「白鳥決定」にいたったのでした。この決定は、村上さんの再審請求を退けたとはいえ、証拠の弾丸は「第三者の作為ひいては不公正な捜査の介在に対する疑念が生じうることも否定しがたい」と述べています。村上さんは、この決定の5ヶ月後の69年11月14日、網走刑務所から出獄しました。刑期の43%で再審請求中に仮釈放を勝ちとったのは前例がないことで、まさしくそれは、支援運動の力というべきでしょう。

 日本国民救援会と再審・えん罪事件全国連絡会は、冤罪諸事件の支援をより広範に展開するために、毎年、白鳥決定が出された記念すべき5月20日、全国で一斉宣伝行動を行っています。
 白鳥運動について谷村弁護士は、前記の著書で、「決定の前日までに積み上げられた再審開始要請署名は142万名に達していた。この白鳥事件の運動、他の再審諸事件のたたかい、日弁連の再審に関する活動、学会の新しい動向が一体となって最高裁を囲んだとき、はじめてこれまでの判例をくつがえして新しい決定がなされたのである」と結んでいます。
 この白鳥決定に続いて、免田、財田川、松山、島田と死刑確定事件が再審無罪となり、徳島事件は戦後はじめて請求人死亡により遺族が引き継いだ死後再審事件で無罪となるなど、一時、再審の門が大きく開かれてきたかのような時期がありました。
 ところが最近、各地の裁判所で白鳥決定を否定する決定がだされ、せっかく開かれた開かずの扉を、またまた塞いでしまおうとする裁判が目立っています。次回は、こうした傾向とそれとのたたかいについてふれたいと考えます。

※ 白鳥事件とは
 1952(S27)年1月21日夜、札幌市警白鳥一雄警備課長が何者かに射殺された事件。警察は「共産党の犯行だとして数十名の党員を別件逮捕。同年10月1日、占領目的阻害事件で保釈中だった当時日本共産党札幌地区委員長の保釈を取り消して刑務所に収容、以後約3年に渡り道内の警察署をたらいまわしにし、弁護士の接見も妨害、13の罪名で逮捕起訴を続けたすえ、55年8月16日、殺人罪の首謀者として起訴。唯一の物的証拠とされた弾丸の鑑定書もできていなかった。証拠は、長期勾留のすえ作られた他人のうその供述のみ。
 一審死刑、二審無期、63年10月17日最高裁上告で上告棄却により確定、11月28日、網走刑務所に収容される。国治は車中で勝利にむけての決意を固め、次の詩を書いた。

    北へ、北へ 北へ
    ひた走る
    石狩川の流れも
    細まるあたり
    ふるさと 上川盆地は
    雪におおわれていた

    12年ぶりに通るわが村、々、々
    網走行き急行「浜なす」は
    無情にひた走る
    北へ、北へ、北へ、

    手錠、腰縄、囚衣
    歯をくいしばれ
    涙を怒りにかえよ
    屈辱をたえしのべ
    この同じ道を南下する日のために
    勝利の太陽とともに
    南下する日のために
             (続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会⑤」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や「連絡会」と日本国民救援会との関係を知りたいという要望があり、本連絡会の代表委員でもある日本国民救援会中央本部前会長の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件全国連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただいています。今回は、その第5回です。

 1950年代から60年代の弾圧・謀略事件の最中、冤罪事件の無実の訴えにも国民救援会は組織を挙げて支援しました。人びとが冤罪事件に目をむけ始めた1962年、再審請求中の無実の死刑囚・藤本松夫さんの絞首刑が行われ、死刑囚とその家族を含めた救援運動関係者に衝撃を与え、国民救援会中央本部の呼びかけにより死刑確定事件の支援団体と支援者による「死刑確定事件全国連絡会」が組織されました。しかし、冤罪事件の裁判は深刻を極めました。1973年4月、自由法曹団と国民救援会が呼びかけた再審請求の支援団体の会議で竹沢弁護士が再審裁判の強化を求め、国民救援会中央本部を事務局とした「再審事件全国連絡会」が作られました。
 再審請求事件の中で抜きんでたたたかいは白鳥事件でした。再審請求事件は刑事裁判の中でも、最もむずかしい裁判です。それは、再審無罪を妨げる2つの壁(刑訴法第435条と裁判所の誤った権威主義)があるからです。
 白鳥事件のたたかいは、当初の孤立無援の状態を切り開き、ついに唯一の物的証拠とされた3発の弾丸は、同一のピストルから発射されたものではなく、当局のでっち上げであることを明らかにしました。それは、弁護団と多くの科学者の活動による研究のたまものでした。白鳥事件は、法曹、学会、文化、芸術などあらゆる分野の共通の課題となっていったのでした。
 上告審に入って、各地に「村上国治を守る会」が組織され、62年3月16日、全国35団体により白鳥事件中央対策協議会(中央白対協)が結成され、たたかいの火種は壮大な炎となって広がり、第一小法廷の「白鳥決定」にいたったのでした。この決定は、村上さんの再審請求を退けたとはいえ、証拠の弾丸は「第三者の作為ひいては不公正な捜査の介在に対する疑念が生じうることも否定しがたい」と述べています。
 この白鳥決定に続いて、死刑確定事件の再審無罪が続き、一時、再審の門が大きく開かれてきたかのような時期がありました。
 ところが最近、各地の裁判所で白鳥決定を否定する決定がだされ、せっかく開かれた、開かずの扉をまた塞いでしまおうとする裁判が目立っています。
(以上、第4回までの概要)

 白鳥決定の後、83年には熊本・免田事件が、続いて84年には香川・財田川事件と宮城・松山事件、そして89年には静岡・島田事件など死刑確定事件をはじめ、弘前事件その他多くの冤罪事件の再審裁判が無罪となり、再審制度は定着したかのような報道も流されました。しかし最高裁の中には、白鳥決定に敵意さえ示す裁判官がいたのです。このことについて、徳島地裁で富士茂子さんの再審開始を決定した元裁判官・秋山賢三弁護士が、2001年の再審・冤罪事件全国連絡会の総会で行った講演の中で、触れています。(救援情報No32特集・えん罪をなくすために参照)
  白鳥・財田川決定を苦々しく思う裁判官が最高裁に存在していたという事実は、下級審の裁判所にも同様な考えを持つ裁判官がいることをも示しており、そして再審請求事件が相次いで棄却されている最近の傾向は、こうした裁判官によってせっかく開いた再審の扉を、再び狭めようとする、いわゆる逆流が作られているのではないか、と思われます。

 私たちが支援している事件をみると、福岡高裁宮崎支部が、04年12月、大崎事件の再審開始決定取消・請求棄却に対する特別抗告を、06年1月、最高裁第一小法廷が棄却。同年3月には、大津地裁が、日野町事件の再審請求を棄却。同年6月には名古屋高裁が、名張事件7次請求を認めて行った再審開始決定取消・請求棄却、そして今年の3月には、最高裁第二小法廷が、袴田事件の請求棄却に対する特別抗告を棄却などなど、相次いで請求が退けられています。大崎事件や名張事件のように、長年にわたり地を這うような努力を重ねたすえ、ようやく獲得した再審開始決定が無慈悲に覆えされてしまうことは深刻というほかありません。
 しかも重大だと思われる問題は、再審開始を認めると「判決が確定したことにより動かしがたいものとなったはずの事実関係を、証拠価値の乏しい新鑑定や新供述を提出することにより、安易に動揺させることになる。それは確定判決の安定を損ない三審制を事実上崩すことに連なり、現行刑事訴訟法の再審手続きとは相入れない」としてせっかく開いた再審の門を無慈悲に閉じてしまった福岡高裁宮崎支部の決定を、最高裁が「申立人提出に係る新証拠の明白性を否定して本件請求を棄却すべきものとした原判断は、正当として是認することができる。」と支持したことです。

 この決定には、あからさまに白鳥・財田川決定の精神を骨抜きにして、「疑わしい場合は確定判決の利益、検察側の利益のために」と、再審の扉にかんぬきをかけて開かずの扉にしてしまおうとの魂胆があるのではないかと窺われます。
 大崎事件の棄却決定は、次のように、強制された自白を最重視しています。
「地裁決定は共犯者の自白が客観的証拠に裏付けられていないとするが、凶器のタオルが特定されていなくても、殺害に際して入手できる状況にあったし、自白を疑う理由にはならない」。自白を裏付ける物的証拠が存在しないにも関わらず、自白は信用できるとするこの決定を正しいとする最高裁の判断は、誤った裁判を助長させる結果を導くことになりかねません。自白重視の裁判が後を絶たない現実を見るとき、私たちは裁判批判の声を一段と高めることの必要性を痛感させられます。

 再審裁判をめぐるこうした暗い現象の中で、水戸地裁土浦支部の布川事件の再審開始決定、そして東京高裁が検察側の即時抗告を退けた決定は、再審請求諸事件の関係者に、希望の輝きと新たな励ましを与えました。とくに東京高裁の決定は、名張事件の再審開始決定を覆した門野博裁判長によって行われたところに重い意味があると思います。
 東京高裁で、布川事件の事実取り調べが進行中に門野裁判長に変更されたことを知ったとき、私たちの中に、名張の二の舞にされるのではないかと緊張の空気が流れました。そのときの谷村正太郎先生が語った言葉を思い起こします。ある支援集会で谷村先生は、「裁判は、神・仏に頼るように、裁判官を頼りにするものではない。どんな裁判官になろうとも、裁判官をして正義の立場に立つよう、事実と道理にもとづいて説得することである」という趣旨の話をされました。桜井、杉山両者もまた、「再審開始を必ず勝ちとる」という強い決意にあふれ、明るく溌剌とした態度で立ち向かっていました。
 こうした確信のうえに行われた弁護団の優れた弁護活動と、現地調査、集会、要請行動など創意をこらした活動が、門野裁判長のもとであの画期的決定を勝ち取ったのではないでしょうか。
 最高裁に対して、名張事件の特別抗告を認めさせることと、布川事件の検察側の特別抗告を棄却し再審開始を決定させるたたかいは、逆流現象といわれている再審裁判の流れを、再び白鳥・財田川決定の流れに取り戻すうえでも、重要な意味を持っていると言えるでしょう。

 奥西勝さんは83歳、日野町事件の阪原弘さんは面会室には車いすで来るほど衰弱しているとのことです。無実を訴えながら獄死を余儀なくさせられた三鷹事件の竹内景助さん、帝銀事件の平沢貞通さんのような悲劇を繰り返させないために、支援の力を強める時だと思います。 

(続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会⑥」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や「連絡会」と日本国民救援会との関係を知りたいという要望があり、本連絡会の前代表委員でもある日本国民救援会中央本部顧問の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件全国連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただいています。今回は、その第6回です。

 1950年代から60年代の弾圧・謀略事件の最中、冤罪事件の無実の訴えにも国民救援会は組織を挙げて支援しました。1962年、再審請求中の無実の死刑囚・藤本松夫さんの絞首刑が行われ、「死刑確定事件全国連絡会」が、1973年4月、「再審事件全国連絡会」が作られました。
 再審請求事件は2つの壁(刑訴法と裁判所の誤った権威主義)がある最も難しい裁判です。その中で白鳥事件は、孤立無援の状態を切り開き、当局のでっち上げを暴きました。白鳥事件は、法曹会だけでなくあらゆる分野の共通の課題となっていったのでした。
各地に「村上国治を守る会」が組織され、62年白鳥事件中央対策協議会が結成され、第一小法廷の「白鳥決定」にいたったのでした。この決定は、「不公正な捜査の介在に対する疑念が生じうることも否定しがたい」と述べています。
 白鳥決定の後、熊本・免田事件、香川・財田川事件、宮城・松山事件、静岡・島田事件など再審の門が大きく開かれたように見えました。しかし白鳥決定に敵意を示す裁判官によってせっかく開いた再審の扉を、再び狭めようとする流れが作られはじめました。
 大崎事件、日野町事件、袴田事件など、相次いで請求が退けられています。この決定は、白鳥・財田川決定の精神を骨抜きにして、「疑わしい場合は確定判決、検察側の利益に」と、再審の扉にかんぬきをかけてしまおうとの狙いが窺われます。また、大崎事件の決定は、自白を裏付ける物的証拠が存在しないにも関わらず、自白は信用できるとし、自白重視の裁判を助長させることとなりました。
 こうした暗い現象の中で、布川事件の二つの勝利決定は、希望となりました。とくに東京高裁では、名張事件の再審開始決定を覆した門野博裁判長によって行われたところに重い意味があると思います。
 東京高裁のたたかいで、谷村先生は、「裁判は裁判官を頼りにするものではない。裁判官をして正義の立場に立つよう、説得することである」という趣旨の話をされました。こうした確信のうえに行われた弁護活動と運動が、あの画期的決定を勝ちとったのではないでしょうか。
 最高裁の名張事件、布川事件のたたかいは、再審裁判の流れを、再び白鳥・財田川決定の流れに取り戻すうえでも、重要な意味を持っています。
奥西勝さんや日野町事件の阪原弘さんに、無実を訴えながら獄死という悲劇を繰り返させないために、支援の力を強める時だと思います。(以上、第5回までの概要)

 前号で私は、「無実を訴えながら獄死を余儀なくさせられた三鷹事件の竹内景助さんや帝銀事件の平沢貞通さんのような悲劇を繰り返させないために」と、名張事件などへの支援の強化を訴えました。09年1月、名張事件の奥西勝さんは、逮捕いらい半世紀近くの獄中生活を強いられながら、82歳を迎えます。
これまで国民救援会が支援してきた確定した死刑判決の再審を求めながら、ついに獄中で命を絶った冤罪事件の犠牲者の悲劇を想い起します。
 1948(S23)年1月26日に発生した帝銀事件の平沢貞通さんは、同年8月21日、事件のあった東京・中野区からはるか離れた北海道・小樽の自宅で逮捕されました。そして死刑判決が確定して後、じつに17回も数える再審請求がことごとく却下され、1987S62)年5月9日、東京・八王子医療刑務所で獄死しました。享年95歳 獄中生活は39年に及びました。
 牟礼事件の佐藤誠さんは、1952(S27)年10月3日、2年も前に発生した女性殺人事件で、他人のウソの供述によって主犯と目されて逮捕され、一貫して否認しましたが、死刑囚とされました。無実を叫び獄中から申し立てた8回の再審はことごとく棄却され、89年10月27日 仙台拘置所で獄死しました。享年77歳、獄中生活37年でした。
 これらの悲劇の中でも、三鷹事件の死刑囚・竹内景助さんの獄死は特に忘れがたい出来事でした。三鷹事件は、1949年、下山事件と松川事件の間に、東京・三鷹駅で引き起こされた事件で、国鉄を舞台に仕組まれた三大謀略事件の一つです。
 同年8月1日、その他の国労組合員と同時に、無人電車暴走による殺人事件の共犯者の一人として逮捕、起訴された竹内景助さんは、一審で彼の単独犯行だと認定され、無期懲役を宣告されました。竹内さんは東京高裁に控訴。検察側も無罪となった組合員とともに竹内さん控訴しました。重大な問題は、東京高裁が一度も事実審理もせずに、竹内さんへの「無期懲役」を覆して「死刑」としたことです。竹内さんは上告しましたが、最高裁は、口頭弁論も開かずに、これを棄却してしまいました。日本の裁判の悪しき歴史の一つです。
 竹内さんは再審と時に恩赦を請求しました。これには、自由党の副総裁・大野伴睦、声優・徳川夢声、総評事務局長・岩井章、作家・亀井勝一郎さんら各界の著名人が呼びかけ人となり社会に大きな反響を呼び起こしました。そして、一審を担当した鈴木忠五元裁判長、鳩山一郎、河野一郎など政界や広範な文化人から再審・助命の嘆願署名が寄せられたのでした。
 ところが、67年1月13日の午後、突然、東京拘置所から、竹内さんが倒れたとの知らせがありました。救援会東京都本部飯沼勝男事務局長が、直ちに弁護団と芝病院の稲垣院長らと連絡を取り、家族とともに、拘置所に駆けつけました。当時拘置所は、豊島区・池袋にあり、占領期間中は「スガモ・プリズン」と呼ばれており、現在は「サンシャインビル」が建っています。
 これより前、竹内さんは激痛に襲われたり記憶に変調をきたすなど、体調異変が明らかでした。救援会は竹内さんの健康を心配して、民医連の医師に竹内さんとの面会による健診を依頼し、その結果、脳腫瘍の疑いがあることがわかり、当局に精密な診断を求めていたのでした。しかし法務省矯正局・樋口幸吉医療分類課長は、拘禁性ノイローゼだとして、この申し出を受け入れませんでした。だが、結果は、脳腫瘍だったのでした。
 飯沼事務局長らは、猛烈に抗議し、拘置所の応接室に貸布団を運んで、交代で泊まり込みの看病を認めさせました。看守が腰につけている鍵束の中から、ガチャガチャと鍵を取り出して拘置所の事務棟のドアを開ける。ついで拘置所の内部を仕切る大きなコンクリートの塀の頑丈なドア、そして病舎のドアの鍵と順次取り出して病舎へ案内。竹内さんが寝かされている部屋のドアは、通路側にハンドルがあるだけで、内部からは開けられないようになっていました。 竹内さんは、2畳ほどの板の間に敷かれた畳の上の黄色みがかった薄い布団に、意識を失ない横たわっていました。ひとりの雑役囚が枕頭に正座して、両手で竹内さんの口と鼻に人工呼吸器をあてていました。ヒューヒューと人工呼吸器の音がして、ポンプが空気を肺に注入し吐き出すたびに、竹内さんの頬が膨らんではへこんでいました。ついに彼の心臓の鼓動が止まりました。遺体にマサ夫人がしがみついて、「お父ちゃん!くやしい!」と号泣した姿は今も脳裏に深く刻まれています。獄中18年、享年45歳でした。

「歴史は繰り返す」という言葉があります。だが、悲劇の歴史は繰り返させてはなりません。悲劇の歴史を克服して、新しい明るい未来を展望する歴史の創造に向けて、獄中48年、最も長期間の監禁生活を強いられ、82歳を迎える奥西さんの救出運動を強めましょう。布川事件の再審開始決定を確実に手にいれましょう。同時に、獄中で病苦に耐えている日野町事件の坂原さんの再審無罪のために、力を注ぎましょう。

(続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会⑦」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や「連絡会」と日本国民救援会との関係を知りたいという要望があり、本連絡会の前代表委員でもある日本国民救援会中央本部顧問の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件全国連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただいています。今回は、その第7回です。

 1950年代から60年代の弾圧・謀略事件の最中、冤罪事件の無実の訴えにも国民救援会は組織を挙げて支援しました。1962年、再審請求中の無実の死刑囚・藤本松夫さんの絞首刑が行われ、 「死刑確定事件全国連絡会」が、1973年4月、「再審事件全国連絡会」が作られました。
 再審請求事件は2つの壁(刑訴法と裁判所の誤った権威主義)がある最も難しい裁判です。その中で白鳥事件は、孤立無援の状態を切り開き、当局のでっち上げを暴きました。法曹界を越えた国民の運動が第一小法廷の「白鳥決定」にいたったのでした。この決定は、「不公正な捜査の介在に対する疑念が生じうることも否定しがたい」と述べています。
 白鳥決定の後、熊本・免田事件、香川・財田川事件など再審の門が大きく開かれたように見えました。しかし白鳥決定に敵意を示す裁判官によってせっかく開いた再審の扉を、再び狭めようとする流れが作られはじめました。
 大崎事件、袴田事件など、相次いで請求が退けられています。大崎事件の決定は、自白を裏付ける物的証拠が存在しないにも関わらず、自白は信用できるとし、自白重視の裁判を助長させることとなりました。
 こうした暗い状況の中で、布川事件の二つの勝利決定は希望となりました。
 帝銀事件の平沢貞通さん、牟礼事件の佐藤誠さん、三鷹事件の竹内景助さんのような無実を訴えながらの獄死という悲劇を繰り返させてはなりません。竹内さんの遺体に夫人がしがみついて、号泣した姿は今も脳裏に深く刻まれています。
悲劇の歴史を克服して、新しい明るい未来を展望する歴史の創造に向けて、獄中48年の奥西勝さんの救出運動を強めましょう。布川事件の再審開始決定を確実に手にいれましょう。同時に、獄中で病苦に耐えている日野町事件の坂原さんの再審無罪のために、力を注ぎましょう。         (第6回までの概要)

 昨年の11月19日に行われた、国民救援会北九州総支部第26回大会議案の、えん罪・引野口事件のたたかいに惹きつけられました。長女の典子さんは職場を辞めて毎日拘置所に通って、母・みつ子さんと面会激励し、長男の和彦さんもまた職をなげうってマスコミへの働きかけや鑑定証人探しに奔走し、全国30もの都道府県に訴え、普及した要請ハガキは7000枚、パンフレットは1万冊に及んだと記されています。その和彦さんが総支部の役員に選出された支部ニュースを見て、心底から嬉しく思いました。
 かつて八海事件の稲田実さんが、最高裁判決で無罪が確定したのち国民救援会東京都本部の専従の道を選びました。そして病のため役員を辞任するまでの長い年月にわたって、数多くの弾圧事件や松山事件、布川など冤罪事件の犠牲者救援運動に専心されました。また徳島・ラジオ商殺し事件の犠牲者・富士茂子さんの雪冤のために30年にわたって活動した、富士茂子さんの従兄・渡辺倍夫さんのことも貴重な思い出の一つです。渡辺さんの努力によって勝ち取られた「死後再審」完全無罪は、わが国の冤罪裁判の歴史を飾るものです。渡辺さんはその後、長い年月にわたって国民救援会徳島県本部の会長を歴任し、県下の救援運動の先頭に立って活躍されました。再審請求の最中の頃だったと思います。渡辺さんが当時港区にあった、国民救援会中央本部を初めて訪ねてきたことがありました。あの頃の国民救援会は、多くの弾圧犠牲者の救援に忙殺され、冤罪事件の犠牲者救援に注ぐ力は、今日のそれに比べて、はるかに劣っていました。渡辺さんに応対した斉藤事務局長は、国民救援会の力不足を詫びながら3000円をカンパしたとのことでした。後日、「その札を今も大切に保存している」と渡辺さんから聞いた言葉に、私は心を強く動かされました。
 稲田さんや渡辺さんに続いて、片岸和彦さんが北九州総支部の常任委員に選ばれたことを知り、冤罪の支援運動に取り組んできた国民救援会の年輪に新たな厚みが加わった力強さを実感させられます。そして和彦さんとご家族に、敬意と感謝の言葉を贈ります。

 ところで最近は、裁判所が治安機構の一部になっているかのような裁判が各地で行われ、国民の人権が人権擁護の砦であるべき裁判所によって奪われる、深刻な事態が頻発しています。刑事裁判の有罪率は、下記のように99.9%にも達しており、加えて死刑、無期懲役など重罰が増加しています。
  2001年度の有罪率=99.918%、有罪のうち死刑26、無期139
  2006年度の有罪率=99.873%、有罪のうち死刑42、無期247
 この重罰化現象は、最近激増している痴漢えん罪事件の裁判にも及んでいます。しかも無実の証拠が根拠も示さずに無視されたり、裁判官が裏付けのない勝手な想定で犯罪事実を認定する事例が少なくありません。痴漢を制止しようとして、逆に痴漢容疑で起訴された町田痴漢冤罪事件のMさんは1年6か月の実刑判決、控訴を棄却した東京高裁は、無実の訴えに敵意を示し「不合理な弁解をろうして犯行を否認し、被害者に慰謝の措置をなんら講じようとしないのはもとより、被害者を証人として尋問する結果を招いているのであって、……原判決の量刑は刑期の点を含めて相当」と決め付けています。この判決は、一回の事実審理も認めずに宣告されました。憲法が保証する被告人の権利を、あろうことか高等裁判所が否定し、さらに加えて、最高裁もまた決定で上告を棄却したのでした。

 いま最高裁の方針のもと、全国の裁判所が進めている「迅速裁判」は、「拙速裁判」となり、裁判所が冤罪事件を完成させているといっても過言ではありません。憲法第37条が規定している「被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」を、憲法の番人・人権の砦とたとえられている裁判所が侵害しているのです。
 道理を無視した裁判によって、家族もろとも生活を破壊され、人間の尊厳を奪われた犠牲者は少なくありません。神奈川・デパート地下痴漢えん罪事件の河野優司さんは教師を身分を追われ、長野・ひき逃げえん罪事件の塚田学青年は懲役2年で服役中、東京・西武池袋線小林事件の小林卓之さんは懲役1年10カ月の実刑判決を受けて上告中です。善良な市民として生活してきたこの人びとが、罪なき罪人にさせられているのです。
 大きな社会問題となった、志布志公選法でっち上げ事件の無罪判決が確定した直後のことでした。法務省が全国の高検・地検の幹部を招集して開催した検察長官会同において、当時の法務大臣・鳩山邦夫氏が訓示の中で途方もない言葉を言ってのけたことは、えん罪犠牲者や支援者の記憶に深く残っていると思います。彼は「冤罪という言葉は、全く別の人を逮捕し、服役後に真犯人が現れるなど100%の濡れ衣の場合をいい、それ以外の無罪事件にまで適用すると、およそ無罪というのは全部冤罪になってしまう」と暴言を吐いたのでした。彼のこの言葉は、代用監獄制度のもとで自白を強制して冤罪をつくる捜査当局への激励以外のなにものでもありません。 冤罪事件が絶えないのは、このような政治的背景があるからでしょう。その彼は、大臣在任中13人の死刑執行を命令し、国連人権高等弁務官から強い遺憾の意が示されました。
 
 国連規約人権委員会は、昨年末の第5回日本政府報告審査の結果、日本政府に対して、代用監獄の廃止や取調べの可視化など、極めて厳しい改善を勧告しました。この勧告の内容を実現させるのは、私たちの今後の運動にかかっています。冤罪に苦しむ人びとの心を私たちの心として、支援運動のさらなる発展のために頑張りましょう。(続く)

「再審・冤罪事件と日本国民救援会⑧」

 再審・えん罪事件全国連絡会の発足の経過や「連絡会」と日本国民救援会との関係を知りたいという要望があり、本連絡会の前代表委員でもある日本国民救援会中央本部顧問の山田善二郎さんに、再審・えん罪事件全国連絡会発足の歴史的経過などを連載で書いていただいてきました。今回は、その第8回で、最終回となります。

 1950年代から60年代の弾圧・謀略事件の最中、冤罪事件の無実の訴えにも国民救援会は組織を挙げて支援しました。1962年、再審請求中の無実の死刑囚・藤本松夫さんの絞首刑が行われ、「死刑確定事件全国連絡会」が、1973年4月、「再審事件全国連絡会」が作られました。
 再審請求事件は2つの壁(刑訴法と裁判所の誤った権威主義)がある最も難しい裁判です。その中で白鳥事件は、孤立無援の状態を切り開き、当局のでっち上げを暴き、「白鳥決定」にいたったのでした。
 しかし白鳥決定に敵意を示す裁判官によってせっかく開いた再審の扉を、再び狭めようとする流れが作られはじめました。
 大崎事件、袴田事件など、相次いで請求が退けられています。大崎事件の決定は、自白を裏付ける物的証拠が存在しないにも関わらず、自白は信用できるとし、自白重視の裁判を助長させることとなりました。
 こうした暗い状況の中で、布川事件の二つの勝利決定は希望となりました。
 帝銀事件の平沢貞通さん、牟礼事件の佐藤誠さん、三鷹事件の竹内景助さんのような無実を訴えながらの獄死という悲劇を繰り返させてはなりません。
 悲劇の歴史を克服して、新しい明るい未来を展望する歴史の創造に向けて、獄中48年の奥西勝さんの救出運動を強めましょう。布川事件の再審開始決定を確実に手にいれましょう。同時に、獄中で病苦に耐えている日野町事件の阪原さんの再審無罪のために、力を注ぎましょう。         
 近年、裁判所が治安機構の一部になっているかのような裁判が各地で行われています。刑事裁判の有罪率は99.9%、加えて死刑、無期懲役など重罰が増加しています。
また、全国の裁判所が進めている「迅速裁判」は、「拙速裁判」となり、裁判所が冤罪事件を完成させているといっても過言ではありません。
 国連規約人権委員会は、昨年末の第5回日本政府報告審査の結果、日本政府に対して、代用監獄の廃止や取調べの可視化など、極めて厳しい改善を勧告しました。この勧告の内容を実現させるのは、私たちの運動にかかっています。  (第7回までの概要)

 現在、日本国民救援会は、20件にのぼる冤罪事件を支援しています。名張事件の奥西勝さんと袴田巌さんは死刑、日野町事件の坂原弘さん、ネパール人・ゴビンダさんなど、5件6名が無期懲役の判決が確定し、獄中から無実を訴えています。町田痴漢冤罪事件無実のAさんは、裁判官の勝手な想定により犯罪者とされ、そのうえ迅速裁判によって1年半の実刑が確定し、無念のうちに収監される立場におかれてます。
 そもそも迅速な裁判は、被告人の権利(憲法第37条)として規定されているのであって、第1審の裁判をなるべく2年以内に終了させるとした「裁判の迅速化に関する法律」には、当事者の正当な権利利益が害されないように、公平で適切な手続きを確保することが規定されています。だが、裁判の迅速化の流れの中で被告人の公正な裁判を受ける権利、が、いとも簡単に侵害され、善良な市民をいわれのない犯罪者にしてしまう裁判が激増しているのが現実です。なぜか?
 それは平成19年7月13日最高裁判所が公表した「裁判の迅速化に係る検証結果」からうかがわれます。これによると最高裁は、平成18年の全国の刑事裁判第1審の平均審理期間の概況を調査、7割余の事件が3か月以内に終了しており、2年を超える事件の割合は0・3%だと分析しています。そして「裁判長期化の要因の相当部分は、第Ⅰ回公判期日前の事前準備制度の実効性の乏しさ、効果的な証拠開示制度の不存在といった制度的限界とも関連している」としています。一見して分かるのは、被告人の「正当な権利利益が害されないように」との規定が尊重された迅速裁判が行われているか否かいう視点は、完全に欠落しているのです。迅速な裁判によって被告人の無罪が確定したという報道は、一つもありません。
 迅速すなわち拙速裁判が激増している大きな原因は、ここにあるといえましょう。しかも深刻なのは、2001年度の無罪率は99.918%、2006年度は99.873%と極めて低いのと反対に、2001年度の死刑26名、無期懲役139名が2006年度には死刑42名、無期懲役247名と急増しています。犯罪容疑を否定し無実を主張したが故に、「反省の色がない」として実刑を宣告した事例に見られるように裁判所が懲罰機関になったかのような傾向が強まっていることも深刻な問題です。 
 08年2月7日付読売新聞は、東京地裁が、裁判員制度を前に、同年4月以降、殺人など対象となる全事件について、初公判から判決までを原則数日間で終わらせる「連日開廷」とする方針を決め、刑事裁判官は、すべての刑事裁判部が連日開廷を目指すことで一致したと報道しました。

 ところで警察は、最高裁が推進する公判前の整理手続きと連日公判どのようにとらえているのでしょうか。警察大学校編集する理論誌『警察学論集』第60巻第3号「刑事司法制度と警察捜査」から、その狙いが紹介うかがわれます。 
 「連日開廷がなされると、公判が急ピッチで進むこととなり、状況によっては、証拠の補充捜査が必要となることがありうる。=中略=。この場合、公判維持に当たる検察官と連携を密にして、これを実施することになる。公判整理手続きが実施される場合には、その際に弁護側の主張要旨が明らかにされるので、これを受けて同手続きの実施中に必要な補充捜査が行われることになろう。」
 この論文は、弁護側が主張し計画している無実の証拠・証人などは、補充捜査の名目で押し潰せと呼びかけているのです。現実に公判前整理手続きが適用された長野・塚田学青年の公判では、無実の証拠が警察によってつぶされてしまい、強制されたウソの自白を証拠に、塚田君は酔警察官ひき逃げ事件の犯人と断定され、実刑判決が確定して服役を強いられているのです。

 警察が被害者の自白をとることにどれほどの執念を燃やしているか、愛媛県警のパソコンからシークした13年10月4日付(適正検査選科生)=被疑者取調べ要領=に書かれた、取調べについて13項目にわたる文章の一部を紹介します。

 ○粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要
 ○調べ官の「絶対に落とす」という自信と執念にみちた気迫が必要である
 ○調べ室にはいったら自供させるまで出るな
 ○被害者の言うことが正しいのではないかという疑問を持ったり、調べが行き詰ると逃げたくなるが、  その時に調べ室から出たら負けになる。
 ○否認被害者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ(被害者を弱らせる意味もある)
  この文書は、自白を狙う警察の執念ほどが判ります。

 救援会が支援している冤罪事件の多くは、代用監獄制度の下で長時間に及ぶ自白強要
によって作られたウソの自白調書が重大な争点になっています。

 5月から開始される裁判員制度に当たり、日本国民救援会は、次の5点の緊急改善を要求しています。(この緊急要求はすべての刑事裁判を視野に入れたものです)

 ① 捜査の可視化=自白の強制を許さないため、取調べの完全な録音・録画
 ② 検察側手持ち証拠の全面開示=検察側は無実の証拠を隠すな
 ③ 公判前整理手続きの抜本的改革=弁護側の新たな立証制限をやめよ
 ④ 裁判員の守秘義務の廃止=冤罪救済の道を狭めるな
 ⑤ 裁判批判を封じるな=検察証拠の目的外使用禁止は裁判批判の権利を敵視

最後に
 日本の人権状況、とくに刑事司法制度は人権後進国とさえいわれるほど劣悪な状態にあり、国連規約人権委員会は、審査の度に日本政府に改善を求めてきました。しかし政府は、現在にいたるまで改善の意思すら示していません。
 昨年10月、ジュネーブで国連人権委員会は、日本の人権状況について第5回審査を行った結果、これまでにない強い語調でその改善を求めています。鈴木亜英会長の救援新聞連載記事「国連の日本審査=私が見て感じたこと」を参考に、国連人権委員会の勧告を学習し広めながら冤罪諸事件の支援運動を発展させ、政府に対して勧告の完全実施を求める運動を盛り上げることが、重要な課題になっていると思います。冤罪諸事件の前進と勝利は、冤罪を許さない力を培い強めることと一体の関係にあると思います。
 前途にある夢と希望の実現をめざして、力を合わせて前進しましょう。

(終わり)

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