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えん罪事件資料集

えん罪事件資料集

1.青森: 弘前大学教授夫人殺人事件

事件の概要 

 1949年(昭和24年)8月6日の深夜、青森県弘前市内で、松永藤雄・弘前大学教授の夫人(当時30歳)が、自宅で就寝中に何者かに刺殺される事件が発生。被害者は頚部を一突きに刺されて死亡したもので、他に暴行等の痕跡はまったく見当たらず、一緒の部屋で就寝していた教授の実母と教授の長女は無事でした。警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕(後に人血ではないことが判明)が途切れたところにある家の家人・那須隆さん(当時25歳)を8月22日に一旦別件逮捕し、10月22日に殺人容疑で再逮捕しました。那須さんにはアリバイがあるとして容疑を否認しましたが、人から貰って所持・着用していた古いシミだらけの白色開襟シャツに血痕が付着していたことなどを根拠として起訴されました。

裁判の経過

 一 審    青森地裁弘前支部 1951年1月12日判決 無罪
         裁判長 豊川博雅、 裁判官:坪谷雄平、中田早苗
 控訴審    仙台高裁       1952年5月31日判決 懲役15年
         裁判長: 中兼謙吉、裁判官:斉藤寿郎、細野幸雄
 上告審    最高裁第一小法廷 1953年2月19日判決 上告棄却
         裁判長: 斎藤悠輔、裁判官:入江俊郎、岩松三郎
 再審請求  仙台高裁       1974年12月13日決定 請求棄却
         裁判長: 山田瑞夫、裁判官:野口喜蔵、鈴木健嗣朗
 異議申立  仙台高裁       1976年7月13日決定 再審開始
         裁判長: 三浦克巳、裁判官:松永剛、小田部米彦
 再審公判  仙台高裁       1977年2月15日判決 無罪
         裁判長:三浦克巳、 裁判官:松永剛、小田部米彦

 ① 一審では「その証明十分ならず結局犯罪の証明なきに帰する」として無罪。検察が控訴した控訴審では、当時の法医学の「大御所」だった古畑種基鑑定人(東京大学教授)による白色開襟シャツの血痕の鑑定結果などから、懲役15年の逆転有罪判決を受けました。この古畑鑑定は、白色開襟シャツに付着していた血痕の血液型と同じ血液型をもつ人の確率を述べただけで、「実際は(被害者と)同一人の血液であると考えて差し支えない」としたものですが、高裁はこれを根拠にして有罪としたのでした。最高裁でも二審判決が支持され懲役15年の刑が確定して服役、1963年に仮出所しました。

 ② ところが、1971年になって、被害者と面識があり、那須さんの知人でもあった、別件の強姦致傷等で「同時期服役者」(猥褻図画の販売で懲役6月)やその他の同房者に犯行を打ち明け、さらにこの同時期服役者の方が後になった出所の当日に訪問して、さらに詳しい告白をおこないました。同時期服役者は、話に信憑性があるかどうかについて新聞記事や現地の確認などをおこなって信用できると判断、弁護士に事実経過を説明したのでした。
 真犯人の告白は、本件の殺人について、公訴時効が成立した後のことでした。告白は、「自分が挙げられていれば、他の犯罪と併せて死刑判決は免れなかった、身代わりに犯人とされた那須さんは『命の恩人』だ、申し訳ない」、という意識からのものでした。しかし、時効期間内に真実を申出る勇気まではなく、知人経由で弁護士に尋ねるなどして時効成立を確認してから、告白したのです。また、同時期服役者が調査に「のめりこんだ」事情については、再審公判の場で、「殺してないのに服役する人間の気持ちを察すると、動かざるを得ない」と証言してます。(なお、2010年4月、殺人や強盗殺人など、最高刑が死刑の12の罪は時効が廃止されました。これにより、那須さんのような事件で、その後に真犯人が自ら名乗り出る可能性は、基本的になくなっています。)

 ③ 那須さんは、これにもとづき日弁連の支援を受けて再審請求をしましたが、仙台高裁は、名乗り出た真犯人について、新聞記事を読んだり、最初に告白して調査した同時期服役者から得た知識にもとづいて供述しているのではないかとの、勝手な不信感をもとに、「真犯人の供述と断定できるものはない」として、請求を棄却してしまいました。この棄却決定は、真犯人の告白を頭から否定するものとまでは言えないものでしたが、最終的には原審の古畑鑑定をよりどころにしたのです。
 しかし異議審の仙台高裁は、この告白は信用でき、また、古畑種基鑑定は無意味であること、さらに開襟シャツへの血痕付着が捏造である疑いを指摘して再審開始決定。再審公判の判決では、シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造であると断定され、事件発生から28年後、那須さんに無罪が言い渡されたのでした。
 那須さんは、後の起こした国家賠償請求裁判の敗訴を機に、国家賠償法の改正を求める講演などの活動を続けた後、2008年1月24日、84歳で死去しました。

2.宮城: 遠藤事件

事件の概要

 1975年(昭和50年)12月20日午後9時半頃、新潟県蒲原郡津川町内の国道で轢き逃げ死亡事件が発生。ちょうどその頃、当時トラック運転手をしていた遠藤祐一さん(当時20歳)は、同町の「市街地を抜けた」あたりを会津若松方面へ向かってトラックを走らせていました。事件現場は、遠藤さんの車を基準にすると、同町の市街地に入る前の地点でした。つまり、遠藤さんが同町市街地を抜けた頃に、遠藤さんから見て同町市街地の手前で発生したのです。この交通事故発生からおよそ30分後には緊急検問が実施され、遠藤さんも福島県西会津町で2人の警官による車体各部の入念な検問を受け、「異状なし」として同地を通過、会社のある宮城県岩沼市に帰着しました。
 翌日松山町の自宅での休暇を挟んで、22日に出勤すると警察官が来社しており、求めに応じて上司や同僚も一緒になって車体を点検しましたが、どこにも異常は認められませんでした。
 ところが、警察官は、さらにトラックを岩沼署に移動して欲しいと求めたので、遠藤さんは、これに応じて同署にトラックを運びました。そして、再点検の前に食事に行くようにいわれて、いぶかりながそれにしたがって警察署に戻ると、19x20センチ大の「人血らしい後輪タイヤのシミ」を指摘され、翌日には「本格的な検分を行う」として、その結果、車体の各部から血液、毛髪、皮膚片らしきものといった付着物が次々に「発見」されていったのです。そして、事件当日遠藤さんがもうろうとしてトラックを運転し、泥酔して路上に寝ていた被害者の頭部を踏みつぶしたことに気づかぬまま通り過ぎたとする「自白調書」がつくられたのです。逮捕はありませんでした。遠藤さんは、それから1年後に轢き逃げ犯人(業務上過失致死)として起訴されました。

裁判の経過

 一 審   新潟地裁       1982年9月3日判決 禁固6月執行猶予2年
        裁判長: 宮嶋英世、裁判官:若原正樹、出田孝一
 控訴審  東京高裁        1984年4月12日判決 控訴棄却
        裁判長: 山本茂、  裁判官:篠原昭雄、渡邊一弘
 上告審  最高裁第二小法廷  1989年4月21日判決 破棄無罪
        裁判長: 島谷六郎、裁判官: 牧圭次、藤島明、香川保一、奥野久之

 ① 裁判では当然、遠藤さんは警察による証拠の偽造を主張して争い、遠藤車のタイヤのシミは人血ではないこと、また、酔って道路の中央部に寝ていた被害者の頭か顔の部分をタイヤで踏み越えたという事故情況の見立てからは遠藤車の後輪タイヤの側面には血痕が付着しえないこと、さらに、事故は遠藤さんのトラックが現場を通過した後に起きていること(アリバイ。遠藤さんは、事故現場を通過したのちに1台のバスとすれ違いました。バスの運転手は、遠藤さんの車とすれ違ったあとで、轢かれる前の被害者を見ています。)などを主張・立証しましたが、新潟地裁は検察寄りに立った訴訟指揮をすすめたばかりか、こうした有力な反証をすべて退けて有罪を宣告し、控訴審もこの一審判決を支持しました。

 ② 有罪では、後輪タイヤの側面に付着していたシミが人血か否かについての判断で、法医学の定石とされている鑑定方法をとらずに「独自の方法」でおこなったとする検察鑑定(桂秀策岩手医大教授)を「あえて不合理であるというほどのものではない」として採用した反面で、弁護側鑑定については「異なる検査結果を生じたからといって、両者の間に矛盾があるとまではいえない」とする詭弁を弄して検察鑑定を容認しました。
 また、「被害者の損傷の状況から見て、タイヤ側面のシミの位置には血痕は付着しえない」との弁護側鑑定に対しては、「右前輪で轢いた後の出血が右後輪[外側面]に付着」(一審判決)したとか、後輪タイヤの外側面で轢いた際に頭部の皮膚面が剥がれて後輪タイヤの外側面に付いて血痕を付着させた後に、その皮膚片が再び元の頭部に戻った(控訴審判決)などとするもので、証拠はおろか、事故のメカニズムを考えるうえで誰でもわかっている力学的な常識に反した空想による事実認定でした。
 最高裁は、弁護人の主張をすべて認めて、一、二審判決が「証拠の評価を誤り、判決に影響をおよぼすべき重大な事実誤認を犯した」と指摘し、遠藤さんははれて無罪となりましたが、事件発生・取調べ以来、実に13年半近くの歳月が経っていました。 

3.宮城: 松山事件

事件の概要

 1955年(昭和30年)10月18日未明、仙台市北方の宮城県松山町の小原忠兵衛さん(53歳)宅から火災が発生、焼け跡から小原夫妻(妻42歳)と子供2人(9歳、6歳)の焼けた死体が発見されました。割創もあったことなどから、殺人放火事件として捜査が勧められ、12月2日、現場に近い隣町出身の斎藤幸夫さん(24歳)が、友人との喧嘩を傷害事件として東京で別件逮捕され、6日、この殺人放火事件について自白、同月30日に起訴されました。
 斎藤さんの自白は、前科5犯の人物と同じ留置室に入れられて、この同房者から「やらなくてもやったことにすればよい。裁判のときに本当のことをいえばよい」「自白すれば刑が重くならない。5,6年の刑ですむ」などと促されて大きな影響を受け、取調べの苦痛から逃れるためにこれを受けいれたことによるものでした。

裁判の経過

 一 審   仙台地裁古川支部 1957年10月29日判決 死刑
        裁判長: 羽田実、 裁判官: 池羽正明、萩原金美
 控訴審   仙台高裁       1959年5月26日判決  控訴棄却
        裁判長: 門田実、 裁判官: 細野幸雄、 有路不二男
 上告審  最高裁第三小法廷 1960年11月1日 上告棄却
        裁判長: 島保、 裁判官: 河村又介、 垂水克巳、 高橋潔、 石坂修一
 2次再審 仙台地裁古川支部 1971年10月26日決定 請求棄却
        裁判長: 太田実、 裁判官: 斎藤清実、 平良木登規男
 即時抗告 仙台高裁       1973年9月18日決定 取消差戻
        裁判長: 恒次重義、 裁判官: 清水次郎、 渡辺公雄
 差戻再審 仙台地裁       1979年12月6日決定 再審開始
        裁判長: 伊藤豊治、 裁判官: 畑瀬信行、 田村幸一
 即時抗告 仙台高裁       1983年1月31日決定 抗告棄却
        裁判長: 中川文彦、 裁判官: 藤原昇治、 渡邊公雄
 再審公判 仙台地裁       1984年7月11日判決 無罪
        裁判長: 小島建彦、 裁判官: 片山俊雄、 加藤謙一

 ① 裁判になって、斎藤さんは無実を訴えましたが、原審ではいずれも死刑判決。有罪の根拠となったのは掛布団の襟当てに付いていたとされる80数群におよぶ血痕群でした。三木敏行・東北大学法医学教室助教授と法医学者の権威とされていた古畑種基・東大法医学教室教授の両鑑定人による鑑定で、「掛布団の襟当てに被害者と同型の血液が付着している」としたことが、自白を補強する決定的な根拠とされたのです。この血痕群は、一審段階から、捏造であることが争いとなりました。ところで、自白では、「犯行の返り血でズボンやジャンパーがヌルヌルした」とされています。しかし、捜査時の警察鑑定では、着衣には血痕の付着がないことがわかっていました。一審ではその鑑定書が提出されなかったのです。(なお、一審判決は、「罪となるべき事実」とその判断の根拠とした「証拠の標目」を一括して掲げているだけで、弁護人の主張・立証をふまえたうえでの有罪の理由説明はいっさいありませんでした。)
 この鑑定書は弁護団の「証拠隠し」追及により、控訴審で一部が提出されましたが、十分な法医学的検討はされず、控訴審判決は、「犯行直後被告人が溜池で洗ったり、その後も洗われているので血痕が付着してなくとも異とするに足りない」と、根拠のないままに断定しました。

 ② 第一次再審では、法医学者の実験により、血痕反応は選択などでは消失しないことが実証されました。しかし、裁判所の判断は、「ジャンパー、ズボンが犯行当時斎藤が果たして着用していたものかどうか、別の可能性も否定できない」と、争われている問題とは離れた可能性をもちだして論点をはぐらかすなど、弁護団が提起している問題点を科学的に検討しようとする姿勢をまったく放棄したものでした(1964年4月30日仙台地裁古河支部、裁判長:畠山郁郎、 裁判官:林義一、渡辺剛男)。そして、即時抗告審(1966年5月13日仙台高裁、 裁判長:斎藤寿郎、 裁判官:杉本正雄、柴田孝夫)も、特別抗告審(1969年5月27日最高裁第三小法廷、 裁判長:松本正雄、裁判官:田中二郎、下村三郎、飯村義美)でも斎藤さんの訴えは認められませんでした。
 第二次控訴審の高裁段階(第一次即時抗告審、差戻審)では、あらためて、ズボンやジャンパーには人血が付着しておらず、またそれは洗濯などによる人為的な処置で消失したものではなく最初から付着していなかったことが証明されました。
 さらに、掛布団の襟当ては、一旦鑑定のために三木敏行鑑定人(東北大学)に送られた後、再び警察に戻され、その際の警察鑑定では血痕付着がないとされていたこと、その後再び鑑定人に届けられて鑑定を開始した際には80数群におよぶ血痕群が付着していたことも明らかにされました。検察の証拠隠しは、実に20年におよんでおり、さらに証拠の捏造も暴かれたのです。この段階で再審開始が確定したのですが、掛布団の襟当てに多数の血痕群が付着していたことを前提とする三木・古畑鑑定の妥当性は肯定し、血痕捏造を容認するものでした。裁判所が斎藤さんと弁護団の主張と立証をほぼ全面的に認めるに至ったのは、再審公判にまたなければならなかったのです。

 ③ 再審公判では、証拠もないのに見込みだけで別件逮捕した不当性、同房者の自白のすすめは、警察のスパイとしての行動であったこと、ズボンやジャンパーの人血付着は最初からなかったこと、掛布団の襟当てに付いていたとされる80数群におよぶ血痕群は有罪証明の根拠とすることができないことが明確に宣言されました。再審無罪確定後、斎藤さんが責任追及として起こした国家賠償裁判では、請求は認められなかったものの、三木・古畑鑑定の虚偽性が指摘されました。斎藤さんの無罪確定は、事件発生・取調べ開始から26年7ヶ月後のことです。
 斎藤さんは、無罪確定後、冤罪をつくる警察・検察・裁判所の実態を訴える講演などを続け、2006年7月4日、75歳で死亡しました。

4.福島: 日産サニー事件

事件の概要

 1967年(昭和42年)10月27日の午前0時頃、福島県いわき市にあった日産サニーいわき営業所に当直中の星正俊さん(当時29歳)が、首・腹・背中など数十箇所を切られて殺害され、金品(現金「2100円位」と男物ズボン1枚)を奪われるという事件が発生。迷宮入りかという声も出はじめた、半年経過後の翌68年4月27日の午後、いわき市平の木鍬倉神社境内で、電電公社(現NTT)職員で当時平市に住んでいた齋藤嘉照さん(当時30歳)が、同神社の床下にあった大工道具を持ち出そうとしたとして、朝から張り込み中の平署員に窃盗容疑で別件逮捕されました。
齋藤さんは、逮捕されてから10日後の5月7日「号泣しながら進んで犯行を自白」した(一審論告)とされ、翌5月8日には日産サニー事件の犯人として再逮捕されて、5月29日に「住居侵入・強盗殺人罪」で起訴されました。
 公訴事実(強盗殺人部分)は、齋藤さんが、手袋をして日産サニーいわき事業所の事務所を物色中、宿直員に気づかれて格闘となり、自分で持ってきたドライバーと宿直員から奪った果物ナイフ(刃渡り約10cm、刃幅約2.5cm)で、背部、腹部など10数カ所を切り、刺すなどして重傷を負わせたうえ、ロープで縛り、左首筋を数回刺して殺して、金庫内の現金2100円とズボン1着(時価約2000円)を奪った、というものです。果物ナイフは根元から折れ曲がっていましたが、宿直員の指紋のみが付着しており、最後まで宿直員が持って防戦したことが伺われるものでした。

裁判の経過

 一 審   福島地裁いわき支部  1969年4月2日判決 無期懲役
        裁判長: 藤原秀雄、 裁判官: 高山晨、 岡崎彰夫
 控訴審   仙台高裁         1970年4月16日判決 控訴棄却
        裁判長: 細野幸雄、 裁判官: 桜井敏雄、 竹沢一格
 上告審   最高裁第二小法廷   1971年4月19日決定 上告棄却
        裁判長: 色川幸太郎、 裁判官: 村上朝一、 岡原昌男、 小川信雄
 再審請求 福島地裁いわき支部  1992年3圧23日決定 再審開始
        裁判長: 西理、 裁判官: 園田小次郎、 中村俊夫
 即時抗告 仙台高裁         1995年5月10日決定 再審取消
        裁判長: 蒔井登葵夫、 裁判官: 田口祐三、 富塚圭介
 特別抗告 最高裁第三小法廷   1999年3月9日決定 抗告棄却
        裁判長: 尾崎行信、 裁判官: 千種秀夫、元原利文、 金谷利廣

 ① 齋藤さんは、いったんは犯行を「自白」したものの一審第3回公判からはアリバイを主張して犯行を否認。ほかに齋藤さんと犯行を結びつける直接証拠がないため、変遷著しい自白の任意性と信用性が最大の争点となりました。一審判決は、自白は[大筋において一貫している」から信用できるとして無期懲役。その後の仙台高裁・最高裁でも控訴・上告がが棄却されて「無期懲役。が確定し、宮城刑務所に服役しました。

 ② 1988年(昭和63年)4月に仮釈放となって、20年ぶりに故郷のいわき市に戻った齋藤さんは、この7月に裁判のやり直しを求めて、再審請求を申立ました。縛ったというロープは事件後に警察が持ち込んだものであることが明らかにされます。また、鑑定により、創傷のうち少なくとも4個は、果物ナイフの刃幅と同寸かそれより狭くなっており、この凶器とされた果物ナイフは先端がないのでまっすぐに突いても身体には刺さらず、斬りつけなければならないことから。凶器と傷口が合わないこと、ドライバーで刺したという傷はどこにもないことなどが明白になりました。

 これに対して検察は、石山昱夫・帝京大学教授などを鑑定人に立てて争いました。石山鑑定は、果物ナイフを皮膚面にやや斜めに当てて、ナイフ先端の平坦部と刃物の部分の両方の部位に力がかかるようにして果物ナイフを引いていくと、刃の部分が移動するにつれて、この部分が皮下に入っていって、全部の刃幅が完全に入ったところで今度は果物ナイフを皮膚面に垂直にして力を加えて刺し込んだ後で素早く抜けば、皮膚の弾力性によって傷口は狭まり、ナイフと同じ幅ないしはそれより小さい幅の成傷は可能としたのです(「押し切り効果」説)。この鑑定は、格闘中の傷であることを脇に置いた、[ためにする]類いの代物でした。また、同鑑定は、ドライバーが凶器であったとして、ドライバーの先端部の角を万力でねじ折って鋭い断面をつくった場合には、この部分が皮膚に接触するように斜めに突刺したうえで、これを突刺した方向にこね上げるように操作すれば、被害者の傷の一つはできるとしました。証拠のドライバーがこうした形状・状況にあったわけではなく、これもまた、客観的事実から離れた空論でした。こうした攻防を受け、福島地裁いわき支部は、白鳥・財田川決定をふまえて自白の信用性を否定し、再審開始決定を出しました。

 ところが、検察の即時抗告に対して、仙台高裁は、不当にも、客観的な証拠にもとずかず、ためにする妄想に等しいというほかない石山鑑定などを取り入れて、弁護側の鑑定を退け、自白は信用できるとして「再審開始決定を取り消す]決定をおこなったのです。齋藤さんはこの不当な決定の「取消」をさらに求めて、最高裁に特別抗告をしましたが、最高裁第三小法廷は、理由らしい理由をまったく示さずにこれを棄却してしまいました。

 2000年7月、齋藤さんの再審を支えてきた母・ウタさんの高齢化と病気により、齋藤さんにとっても、部言団や支援運動にとっても、今後の再審準備と運動推進が事実上困難となる事態が起こりました。このために、支援してきた日弁連、弁護団、「齋藤さんを守る会」は、齋藤さんとともに、再審請求の断念を決めて今日に至っており、現在も、新たな再審請求の目処は立っていません。齋藤さんは、「無実を晴らしたい」との思いを抱きながら、強盗殺人という汚名を着せられた痛恨の後半生を余儀なくされています。

5.栃木: 足利事件

事件の概要

 1990年(平成2年)5月13日、栃木県足利市で、前日から行方不明になっていた幼女(4歳)が市内の渡良瀬川河川敷で遺体となって発見されました。それまで未解決の幼児殺人事件が2件発生しており、大規模な聞き込みを展開した警察は、被害者の肌着に付着していた精液の血液型がB型であることから、血液型B型の者を徹底的に捜査しました。捜査が難航するなか、元幼稚園バス運転手の菅家利和さん(当時44歳)が、市内に兄夫婦と両親の住む実家があるのに別宅を借りて一人住まいをしているとうだけのことで、菅家さんに「目星」をつけた警察は、1年間にわたり菅家さんをマークし、菅家さんが捨てたゴミから、精液の付着したティッシュを無断押収。警視庁の科学警察研究所によるDNA鑑定の結果、被害者の肌着に付着した精液は菅家さんのものであるとして、事件から1年後の1991年12月1日、菅家さんが足利署へ連行され、同日深夜、それまでの未解決の2件を含む計3件の幼女殺しを「自供」したことにより、翌日逮捕されました。しかし、先の2件は起訴できず、12月21日、本事件のみが、わいせつ行為目的で連れ出して殺したとして起訴されたものです。

裁判の経過

 一 審   宇都宮地裁      1993年7月7日判決 無期懲役
        裁判長: 久保眞人、 裁判官: 樋口直、 小林宏司
 控訴審   東京高裁        1996年5月9日判決 控訴棄却
        裁判長: 高木俊夫、 裁判官: 岡村稔、 長谷川憲一
 上告審   最高裁第二小法廷   2000年7月17日決定 上告棄却
        裁判長: 亀山継夫、 裁判官: 河合伸一、福田博、北川弘治、梶谷玄
 再審請求 宇都宮地裁       2008年2月13日決定 請求棄却
        裁判長: 池本寿美子、 裁判官: 中尾佳久、 佐藤裕子
 即時抗告 東京高裁         2009年6月23日決定 再審開始
        裁判長: 矢野宏、 裁判官: 杉山愼治、 佐伯恒治
 再審公判 宇都宮地裁       2010年3月26日判決 無罪
        裁判長: 佐藤正信 裁判官: 小林正樹、 市川志都

 ① 菅家さんは、公判開始後も[自白」を維持し続けたものの、家族には一貫して無実を訴え続けており、公判では第6回から犯行を否認しましたが、宇都宮地裁は、DNA鑑定結果を最大の決め手にして「無期懲役」の判決を言渡し、二審の東京高裁も菅家さんの控訴を棄却しました。また、最高裁第二小法廷は、弁護団が独自に菅家さんの毛髪を検査し、菅家さんのDNA型は犯人のものと異なるとする上告趣意補充書を提出したのに対して、これを調べようとせず、DNA型鑑定が信用できるとする初の判断を示して上告棄却の決定を出しました。

 ② しかし、当時のDNA型鑑定(簡易鑑定)の精度は、実際には当時警察が発表していたものよりも大幅に低く、DNAそのものや指紋照合のように犯人特定の決め手にはなり得ないという水準だったのです。また、鑑定は、被害者の肌着から検出した鑑定サンプルの取扱とともに、全部消費したために再鑑定不能という、ずさん・不公正なもので、鑑定精度の問題点との関係ともあわせて、とうてい有罪証拠の資料にはできないものでした。
 また、「自白」によれば、菅家さんは幼女を連れて川岸の運動公園を通り抜け犯行現場に行ったとされていますが、公園には当時多数の市民がいたにもかかわらず菅家さんを見たものがいないこと、一方殺害当時の現場はすでに暗く、照明なしに「自白」どおりの行動をするのは、時間枠の問題ともあわせて不可能であること、遺体の情況と「自白」による殺害内容が整合しないことなど、多くの矛盾点がありました。にもかかわらず、最高裁までがDNA型鑑定は信用でき、証拠とすることができるという初判断を示して無期懲役を維持、「DNA神話」が客観的な事実を退けてしまう典型的な事例となったのでした。

 ③ 再審になっても、その一審では、弁護団が原審の最高裁段階で独自に菅家さんの毛髪(毛根)についておこなったDNA型鑑定について、どのように収集したのか明らかでないから菅家さんのものとはいえないと退けながら、自らは鑑定によって真実の解明をおこなうことはせずに請求を棄却、高裁段階になってようやくこのDNA型鑑定はまったくの誤りであったことが、検察側鑑定も含めてあらためて証明されました。この結果、自白が虚偽であることも不動のものとなって、菅家さんの無罪確定が実ったものです。
 これは、今日のDNA型鑑定が、理論上は全人類のなかから個人を特定できる精度にまで達したとしても、鑑定人や鑑定経緯には人為的な制約があることを考慮しなければならないという、当たり前の事実が明らかにされたことでもありました。菅家さんには、事件発生・逮捕から再審での即時抗告審途中での釈放まで、17年半にわたって拘禁されました。その間に時効が成立、無実の者の自由を奪う一方で、真犯人を取り逃がしたのです。

6.茨城: 布川事件

事件の概要

 1967年(昭和42年)8月30日の朝、茨城県利根町布川で、一人暮らしの玉村象天さん(当時62歳)が自宅で殺されているのが発見されました。死体は、足首を布で縛られ、口内に布片が詰められており、死因は絞頸による窒息死。机、ロッカー、タンス等に物色のあとが見られました。現場の特徴として、八畳間の床が抜けて畳が落ち込んだところに死体が横たわっており、また、死体には敷布団がかけられ、毛布・掛け布団などが散乱していました。さらに、間仕切りのガラス戸が隣の部屋に倒れ、ガラス数枚が割れており、便所の小窓が開いて、桟が2本取り外されていました。
 犯人の手がかりもつかめないまま10月に入り、10日に同町出身の桜井昌司さん(当時20歳)が窃盗で、16日に同じく杉山卓男さん(当時21歳)が暴力行為で、それぞれ別件逮捕され、強盗殺人について各十数通の自白調書が作成されました。11月に拘置所に移されて検察の取調べが開始されてから、二人は、検事に「殺しはやっていない」と訴えたところ、検察官によって、12月1日に警察の留置場へ送り返され(逆送)、警察とその後の別の検察官の取調べによりあらためて自白に転じてしまいます。そして、12月28日、遊興費欲しさに犯行をおこなったとして起訴されました。

裁判の経過

 一 審   水戸地裁土浦支部   1970年10月6日判決 無期懲役
        裁判長: 藤岡学、 裁判官: 玉井武夫、 山口忍
 控訴審   東京高裁          1973年12月20日判決 控訴棄却
        裁判長: 吉田信孝、 裁判官: 大平要、粕屋俊治
 上告審   最高裁第二小法廷   1978年7月3日決定 上告棄却
        裁判長: 大塚喜一郎、 裁判官: 本林譲、 栗本一夫
 2次再審  水戸地裁土浦支部   2005年9月21日決定 再審開始
        裁判長: 彦坂孝孔、 裁判官: 林史高、 行方美和
 即時抗告 東京高裁         2008年7月14日決定 抗告棄却
        裁判長: 門野博、 裁判官: 土屋哲夫、 鬼澤友直
 特別抗告 最高裁第二小法廷   2009年12月14日決定 抗告棄却
        裁判長: 竹内行夫、 裁判官: 今井功、 中川了滋、 古田佑紀
 再審公判 水戸地裁土浦支部   2011年5月24日判決 無罪
        裁判長: 神田大助、 裁判官: 吉田静香、 信夫絵里子

 ① 桜井さん、杉山さんは、翌年2月の第1回公判で強盗殺人を否認し、以来一貫して無実を訴えましたが、2年後、水戸地裁土浦支部は無期懲役の判決。東京高裁の控訴棄却判決。最高裁第二小法廷の上告棄却により、二人は、1966年(平成8年)11月の仮釈放まで千葉刑務所に服役し、支援運動によって仮釈放を実現するまで、逮捕から実に29年余の獄中生活を余儀なくされました。
 
 ② この事件は、捜査過程が語るとおり、代用監獄(警察留置場)が自白調書作成の手段とされた典型です。そして、確定審の裁判所自身が認めるとおり、自白意外にはまったく証拠がありません。しかも、自白は現場の客観的状況と矛盾し、また、公判で明らかになった被害者の死亡時刻の枠内からは、自白による犯行は不可能でした。裁判所はこれを形式論理をもてあそんで退けました。
 さらに、現場付近で2人の通行を「目撃」したとの複数証言については、それぞれに核心部分が変転・混乱し、相互矛盾も極まりないものばかりでしたが、「大筋において一貫」しているとして有力な有罪証拠としたのです。また、有罪の最大の根拠となった、犯行時刻ころに二人が現場前の路上にいたのを目撃したとする証言は、そもそも、見えない暗さのなかで見えたと言い張るもので、まったく信用できない代物でした。

 ③ 1983年(昭和58年)12月23日に請求した第一次の再審は、「無実を証明せよ」という、刑事裁判の原則を踏みにじる立場から、1987年3月31日水戸地裁(裁判長:榎本豊三郎、裁判官:佐藤壽邦、佐賀義史)、1988年2月22日東京高裁(裁判長:小野幹雄、裁判官:横田安弘、井上廣道)、1992年9月9日最高裁第一小法廷(裁判長:大堀誠一、裁判官:味村治、三好達)でいずれも棄却されました。
 2001年12月6日水戸地裁土浦支部に、第二次再審請求をおこないましたが、この審理を通じて何と、検察は40年間にわたって二人の無実の証拠を隠し続けていたことが次々と明らかになりました。但し、それでも隠している証拠の一部に過ぎません。
 被害者は、自白とこれにもとづいて確定判決が認定していた扼頚(手で首を絞めること)ではなく絞頚(布・紐などで首を絞めること)による死亡だったのです。また、事件発生時刻に用事があって被害者宅を訪ねた女性がいました。この女性は、被害者宅前に二人の知人男性がいたので、訪問を遠慮して自宅へ引き返したのですが、それは本件の二人ではなく別人でした。日が替わって事件を知ったこの目撃者女性は、直ちに警察に通報して供述調書も作成されたのです。捜査機関は、これらの事実を当然に事件当初から知っています。そして、検察はこれらを裁判で隠し続けたのです。さらには、調書や供述を録音したテープは改ざんしていました。これらによって明らかになる事実とまったく整合する鑑定結果などにより再審開始が決まり、2011年5月24日再審公判で無罪判決が宣告され、検察の控訴断念により確定しました。

7.埼玉: 草加少年事件

事件の概要

 1985年(昭和60年)7月19日午後、埼玉県草加市の残土置場で女子中学生の頸部圧迫による窒息死体が発見されました。仰向けになった死体は、首にブラスリップが二重巻きにされて結ばれており、上半身は裸、スカートはめくりあげられて乳房部・陰部が露出しており、また、左顔面にはコンクリート製敷石が乗せられていて、その上に被害者が着ていたシャツが丸められている状態でした。被害者の血液型がA型であるのに、シャツに付着していた髪の毛、乳房に付着していた唾液、スカートに付着していた精液はいずれもAB型を示しました。
 当時13~15歳の少年6名が、不確かな聞きこみ情報により「犯人」として取り調べを受け、自白にもとづいて、9月6日、浦和家庭裁判所による少年審判で「保護処分」(初等少年院送致。刑事事件でいう有罪)となり、この審判は東京高裁での抗告棄却決定(翌年6月16日)を経た1989年(平成2年)7月20日、最高裁による再抗告棄却決定により確定しました。
 少年たちと犯行を結びつける証拠は自白意外に存在しません。少年たちには血液のAB型該当者は一人もおらず、O型かB型だけなのです。これに対する裁判所の「有罪」判断は、被害者の垢と少年の唾液が混ざってAB型となったなどという荒唐無稽なものでした。少年たちは3次にわたって審判おやり直し(保護処分の取消し)を求めましたが、当時の少年法には再審の規定がなく、「保護処分が終了している」ことを理由に棄却され続けました。(この事件の反省をきっかけに、2001年4月、「保護処分終了後の処分取消制度」を新設した改正少年法が施行されています。)

裁判の経過

 少年審判  浦和家裁        1985年9月 6日決定 保護処分
         裁判官: 仙波英躬
 抗告審    東京高裁        1986年6月16日決定 抗告棄却
         裁判長: 森岡茂、 裁判官: 小田健司、 阿部文洋
 特別抗告  最高裁第一小法廷  1989年7月20日決定 抗告棄却
         裁判長: 佐藤哲郎、 裁判官: 角田禮次郎、大内恒夫、四ッ谷巌、大堀誠一
 民事一審  浦和地裁        1993年3月31日判決 請求棄却
         裁判長: 山﨑健二、 裁判官: 上原裕之、 桑原伸郎
 控訴審    東京高裁        1994年11月30日判決 取消
         裁判長: 清水湛、 裁判官: 瀬戸正義、小林正
 上告審    最高裁第一小法廷  2000年2月7日判決 破棄差戻
         裁判長: 大出峻郎、 裁判官: 小野幹雄、遠藤光男、井嶋一友、藤井正雄
 差戻審    東京高裁        2002年10月29日判決 請求棄却
         裁判長: 矢崎秀一、 裁判官: 高橋勝男、 木下秀樹
 再上告審  2003年3月21日上告取下

 ① 家裁事件(少年審判事件)での保護処分確定を受けて、被害者の両親は内4名の少年たちの親権者に対して損害賠償請求を求めた民事訴訟を起こしました。少年たちはこれを事実上の再審と位置づけ、少年たちの「無実」を晴らす最後の機会として事件の真相を明らかにしていったのです。
 
 ② 一審の浦和地裁は、自白は客観的状況と矛盾して信用性がなく、「少年たちは犯人ではない」として損害賠償請求を棄却しましたが、東京高裁は、少年審判と同じ判断に立つ逆転の不当判決でした。しかし、最高裁は、少年たちの「無実」を認めて、審理を東京高裁に差し戻しました。最高裁判決は、少年らの自白には「秘密の暴露」(真犯人しか知り得ない事実が語られていること)がなく、犯行場所や態様がなんかいもへんせんしているのは「捜査官の誘導」があったと認め、自白が客観的な証拠や事実と明らかに矛盾することも明確にしました。したがって、最高裁は、差し戻しではなく、破棄自判により裁判を終結させるべきでした。差戻しでの「無罪」判決(損害賠償請求を棄却する判決)を経て、原告(被害者)の上告取下げにより、「無罪」が確定しました。

8.東京: 大森勧銀事件

事件の概要

 1970年(昭和45年)10月18日(土曜日)夜、東京の日本勧業銀行(当時、その後第一勧業銀行、現みずほ銀行)大森支店で宿直行員(27歳)が電気掃除機のコードで絞殺される事件が発生。
同銀行支店は、通常の土曜日なら数人が深夜残業をすることが多いのに、当日は伊豆への一泊慰安旅行中であり宿町区行員以外は誰も残ってなかったこと、大金庫扉のダイヤルは触れると警察署の非常ベルが鳴る仕掛けとなっていたがこれに触れた形跡がなく大金庫扉の「かんぬき」のボルト数本が外されていたこと、行員は普段から自己の机やロッカーなどに現金や貴重品を入れないことになっていたところ、金品以外は物色した形跡がないこと、さらに、被害者の死体の状況からは、凶器は電気掃除機とコードと鋭利な刃物であり、脇の下の皮下出血痕(羽交い絞めした痕跡と推認)などから、犯人は複数犯で、銀行の内部をよく知っていたという情報をつかみ、この線からの捜査が進展していました。
 ところが、捜査は意外な急転を示し、近田才典さん(当時20歳)が、犯人として逮捕、強盗殺人罪で起訴されます。きっかけは、訪ねていった友人のアパートで、テレビニュースで知った事件について、「あれは俺たちがやった」というウソの「ホラ吹き」話でした。話を聞かされたその友人は、事件を報じる新聞を確認したうえで、事実を尋ね、「何人でやったんだ」との問いに対して「4人か5人くらいだろう」と答えたことからウソと確認しますが、この情報はすぐに警察にもたらされました。そして、その後に訪ねた別の友人からの被害通報で10月27日、窃盗事件で別件逮捕され(11月6日)、取調べで最終的には単独での強盗殺人を自白したものです。強盗殺人の自白は別件逮捕から19日目、起訴は別件逮捕から55日目のことでした。10万円の借金を返す動機により、発見された場合に備えた知人から盗んだヤッパ(手製ナイフ)と金庫を開けるためのプライヤー、指紋を残さないための手袋を準備し、たまたま通用門が施錠されていなかったのでそこから侵入して金庫を開ける最中に発見されたので格闘のうえ殺害に及び、犯行後ヤッパとプライヤーは品川ふ頭の岸壁から海へ捨てたとされています。

裁判の経過

 一 審   東京地裁       1973年3月22日判決 無期懲役
        裁判長: 坂本武志、 裁判官: 安藤正博、 平谷正弘
 控訴審   東京高裁       1978年10月30日判決 無罪
        裁判長: 岡村治信、 裁判官: 小瀬保郎、 南三郎
 上告審   最高裁第三小法廷 1982年3月16日決定 上告棄却
        裁判長: 伊藤正己、 裁判官: 環昌一、横井大三、寺田治郎

 ① 裁判が始まって、近田さんは、取調べではひどい暴行・拷問を受け(殴る・すねを蹴る・首を絞める・髪の毛を引っ張って頭を後ろの壁にぶつける・鉛筆を指の間に入れて両側の指と一緒に握る・机の上に置いている手をいったん上に持ち上げたうえこれを机にぶっつけるなど)、また誘導によってウソの自白がつくられていったと主張して、無実を訴えましたが、一審判決は、取調べにおける強制・拷問・脅迫・偽計・不当な誘導等をすべて否定したうえで、捜査官があらかじめ知っている情報と一致する自白は、犯人しか知りえない事実を述べた「秘密の暴露」にあたり、任意性はもちろん、信用性もあるなどとして無期懲役を宣言しました。

 ② 現場に残された足跡痕以外には確たる物証が何もない本件は、控訴審では自白の任意性と信用性が最大の争点となり、公判審理は44回に及びました。格闘・殺害行為の自白と被害者の傷とは合わず、死体の傷から想定して必ず着くはずの返り血付着はないこと、盗んだとされていたヤッパは実は盗まれていなかったことが明らかになります。プライヤーは「想像上の存在」だと指摘されました。また、新たに足跡鑑定がおこなわれ、足跡が近田さんの靴と一致せず複数の足跡という結果が出され、さらに、掃除機のコードが被害者の首に巻きつけられた状況は、対面状態で巻きつけたという自白の犯行態様とはまったく合わず、背後からしか巻きつけられないことが明白にされ、複数犯による犯行が指摘されました。こうして、検察主張と一審判決の認定は、事実によってことごとく崩れていったのです。この結果、東京高裁は逆転無罪判決を言渡し、検察の上告が棄却されて無罪が確定しました。近田さんの無罪確定は、事件発生・別件逮捕による取調べ開始から12年5ヶ月を経て後のことでした。

9.東京: 沖田国賠裁判

事件の概要

 1992年(平成11年)9月2日夜、国立市の「沖田光男さん(当時57歳)は、JR中央線車内で携帯電話を使用していた女子大生に注意をしたところ、逆恨みで駅前の交番で立番勤務をしていた警察官に「股間を腰に押しつくられる痴漢被害にあった」とウソの被害を申告され、下車後自宅に向かう途中に「痴漢」として現行犯逮捕され、さらに21日間も勾留されました。しかし、検察の取調べの結果、嫌疑不十分で不起訴となったのです。検察が不起訴とした最大の理由の一つは、まさにその「犯行時間帯」に、自称被害者が携帯電話で会話していた相手方である男性の証言でした。
「彼女が『変な人』が近づいてきた」言って間もなく、「電車の中で電話しちゃいけない」という男の声が聞こえた。彼女の『離れてよ』『変なことをしておいて何言ってるの』『分かった、切るよ』等の言葉は聞いていないというこの男性の供述が、女子大生の痴漢行為被害についての説明とは根本的な食い違いがある一方、沖田さんの状況説明と完全に合致していたからでした。 
 沖田さんは、「痴漢冤罪の温床となる警察・検察のずさんな捜査をただしてほしい」と、国と東京都、自称被害者女子大生の三者を相手に国家賠償・損害賠償を求めて提訴し、民事訴訟が開始されました。

裁判の経過

 一 審   東京地裁八王子支部  2006年4月10日判決 請求棄却
        裁判長: 松丸伸一郎、 裁判官: 小泉満理子、 西理香
 控訴審   東京高裁          2007年8月29日判決 控訴棄却
        裁判長: 阿倍嘉人、 裁判官: 内藤正之、後藤健
 上告審   最高裁第二小法廷    2008年11月7日判決 破棄差戻
        裁判長: 津野修、 裁判官: 今井功、中川了滋、古田佑紀
 差戻審   東京高裁          2009年11月26日判決 請求棄却
        裁判長: 大橋寛明、 裁判官: 辻次郎、 見米正
 再上告審 最高裁第三小法廷    2012年1月31日決定 上告棄却
        裁判長: 大谷剛彦、 裁判官: 那須弘平、田原睦夫、岡部喜代子、寺田逸郎

 ① 民事訴訟では、自称被害者女子大生と沖田さんとの身長差と、女子大生が携帯電話で会話していた内容が争点となりました。これらは、痴漢行為は不可能で、かつ存在しなかったことが明らかになる事実だったのです。身長170cmで7cmのヒールの靴を履いている女性の「被害部位」(股間)に、靴を履いていても167cm沖田さんの股間が届かないことは、10cmの身長差から明白でした。ところが、一審判決は、「股間という言葉は下腹部も含む」と「(沖田さんによる)加害部位」の範囲を拡大、一方控訴審判決では「背伸びをしながら女性に接触したことも十分考えられる」などとしてそれぞれ「痴漢行為」の存在を認め、請求を棄却したのです。さらに控訴審判決は、前記の男性証言に出てくる「・・・彼女の『離れてよ』『変なことしておいて何言ってるの』『分かった、切るよ』等の言葉は聞いていない」等については、「(男性が電車の)騒音に影響されて・・・聞こえなかった可能性」があると空想で認定して、自称被害者の供述は信用できるとしました。
 
 ② 最高裁は、自称被害者の供述と、その携帯電話の相手方であった男性の供述には「看過し得ない食い違いがある」ことを指摘するとともに、男性についての証人尋問をおこなわずに勝手に「聞こえなかった可能性」をあげつらうのは「審理不尽の違法」があるとして差戻しました。差戻審では、原審での非常識な事実認定により沖田さんを痴漢の犯人としたことは正されましたが、自称被害者の「故意によるウソの申告」もあったとは認められないとして、損害賠償は認めませんでした(確定)。

10.静岡: 島田事件

事件の概要

 1954年(昭和29)年3月10日正午ころ、静岡県島田市内で朝から園児の遊戯会が開かれていた幼稚園の園庭から、6歳の園児(女児)が「色白で髪をとかし、身ぎれいな勤め人風で背広の上着を着ていた」男(目撃供述・証言要旨)に連れ去られ、翌日から目撃情報の収集、山狩り等の大捜索がおこなわれた結果、13日に至り大井川南岸の山中(現島田市)から惨殺死体で発見されました。5月24日になって、事件発生前の3月3日に家を出て放浪生活をしていた赤堀政夫さん(当時25歳)が、岐阜県下で職責質問を受けたのをきっかけに島田警察署に任意同行されたうえで取調べを受け、とりあえず無料宿泊所に宿泊させられますが、28日に至って別件の賽銭泥棒(窃盗)容疑で逮捕。以後連日、幼児に対する強姦致傷、殺人の嫌疑で取調べを受けた結果アリバイが説明・証明できなかったために、30日、31日に自白調書が作成されて逮捕され、6月17日起訴されました。

裁判の経過

 一 審   静岡地裁        1958年5月23日判決 死刑
        裁判長: 矢部孝、 裁判官: 高島良一、浜秀一
 控訴審   東京高裁        1960年2月17日判決 控訴棄却 
        裁判長: 尾後貫荘太郎、 裁判官: 堀真道、 西村康長
 上告審   最高裁第一小法廷  1960年12月15日判決 上告棄却 
        裁判長: 齋藤悠輔、 裁判官: 入江俊郎、下飯坂潤夫、高木常七
 4次再審  静岡地裁        1977年3月11日決定 請求棄却
        裁判長: 伊東正七郎、 裁判官: 人見泰碩、 渡辺壮
 即時抗告 東京高裁        1983年5月23日決定 取消差戻
        裁判長: 鬼塚賢太郎、 裁判官: 林修、 杉山忠雄
 差戻再審 静岡地裁        1986年5月29日決定 再審開始
        裁判長: 高橋正之、 裁判官: 熊田俊博、 生田弘康
 即時抗告 東京高裁        1987年3月25日決定 抗告棄却
        裁判長: 森岡茂、 裁判官: 朝岡智幸、小田健司
 再審公判 静岡地裁        1989年1月31日判決 無罪
        裁判長: 尾崎俊信、 裁判官: 高梨雅夫、櫻林正己

 ① 公判になって赤堀さんは、切々と無実を訴えました。自白は強要されたものだして、次のように記しています。「事件のことは私は何一シリませんです。ムカンケイデス。・・・調べ官の人たちはカンカンニナッテオコリマシタノデス。オマエガシラナイトソレホド言ウナラ今カラワレワレガオマエニワカルヨウユックリトクワシクハナシテヤルカラヨク二人りの人ガヤルトコロヲミテイヨト言イマシタノデス。」(在監中に記した上申書。原文のまま。上申書は、以下、警察官によりどのように犯行をおこなったかの詳細な実演状況を見せられて、そのとおりに裁判官や弁護人に「ワケヲ話すのだよ」といわれたことが続く。)
 しかし、一審判決は、「知能程度が低く軽度の精神薄弱」を理由に公判での訴えを不利益解釈し、当初の、ありのままに述べたと考えられる連れ去り目撃供述は、赤堀さんが逮捕された後の取調べ次々に変更され、公判での証言も、この変更された内容にもとづいたものでした。証言内容の変更を迫る圧力や偽計に屈せずに、最初の警察での供述と公判証言がほぼ一貫する目撃証言が唯一人いましたが、これに対しては、他の(変更された)証言と矛盾していることを根拠に、その「印象、記憶はあいまい」で「正確な記憶に基づくものとは認められない」と一蹴されました。
 
 ② もう一つ公判で大きな争点となったのは、死体の損傷状況と自白における犯行順序との矛盾でした。女児の死体には、イ:首を絞めた跡、ロ:左胸の硬い物で殴ったと思われる傷、ハ:陰部の裂傷、があり、捜査段階の鑑定医は、イは生前のもの、ロは死後のものと判断しています。ところが、「自白」では、強姦行為の後に石(警察が現場から押収したもの)で左胸を殴り、その後に首を絞めたとなっていました。これはつまり、ロ、イの順となります。すなわち、鑑定書と「自白」では、犯行順序が異なっているのです。この点について疑問を持った一審の静岡地裁は、終結した審理を職権で再開して、当時の法医学会の権威であった古畑種基・東大教授に鑑定を依頼。古畑鑑定は、傷ができた順序は「自白」どおりとし、これによって静岡地裁は死刑判決を宣告し、控訴審、上告審もこれを支持しました。こうして、確定死刑判決における有罪認定の根拠(証拠構造)は、自白と古畑鑑定でした。

 ③ 本格的な再審となった第4次再審になって、自白と合わない客観的事実の数々が弁護団によって主張・立証されました。それは、イ:陰茎を半分くらい入れただけでは被害者の陰部損傷は起きない、ロ:証拠の石による殴打では被害者の胸部損傷は起きない、ハ:被害者に加えられた犯行順序(強姦⇒胸部殴打⇒扼殺=手で首を締めて殺害)は被害者死体の客観的状況と合わない、ニ:胸部殴打に使用したとされる石は、自白によってその存在が明らかとなったもので「秘密の暴露」(真犯人しか知りえない供述により捜査機関が始めて知った事実の供述)の根拠とされていたが、実際は自白前に警察が持っていた(新聞記者の証言など)、ホ:事件前後の赤堀さんの足取りは客観的事実に合わないこと、などでした。これにより再審開始が決定されたのですが、検察はあくまで抵抗を続けました。再審公判では、古畑鑑定を支持する立場から、石山昱夫・東大教授などが新たな鑑定人となりました。

しかし、この石山鑑定(鑑定書と鑑定人証言)は、法廷で「可能性として、お考え頂きたい」と証言する類の事実に即さない恣意的なもので、「お話にならない」無様なものに過ぎませんでした。当時、この石山鑑定については、「東大法医学教室百周年を迎え、なんらかの業績をあげたいと、声高に世間に言いふらしている『御用学者』だと、ジャーナリズムにまで書きたてられた」と紹介されています(伊佐千尋『島田事件』1989年潮出版社)。
 なお、警察は赤堀さんの自白以前に、赤堀さんとは無縁の第三者からこの事件についての自白を得ていました。再審になってその事実が明らかになり、証拠開示が要求されましたが、検察は「プライバシー保護」を理由に、遂にこの自白供述調書を開示しませんでした。赤堀さんの無罪確定は、逮捕から35年10ヶ月、60歳のときでした。

11.静岡: 御殿場少年事件

事件の概要

 2001年(平成13年)9月16日、御殿場市の女子高生が、電車事故で遅くなるとウソの理由を告げる電話をして深夜に帰宅した際、それがウソであることを事実確認していた母親に問い質されて、「御殿場駅から少年たちに公園に連行され暴行を受けたので遅くなった」と述べたので、母親は翌日警察に届けました。警察は、3ヶ月も経った年末から翌年にかけて、御殿場市の中・高校生10名を「強姦未遂」で逮捕し、少年たちは無実を主張しましたが、警察の強引な取り調べでいずれも「自白」。そのうち4名は少年審判の直前に「自白」を撤回し無実を主張したため、家庭裁判所から検察庁に送られ、起訴されました。

裁判の経過

 一 審   静岡地裁沼津支部  2005年10月27日判決 懲役2年
        裁判長: 姉川博之、裁判官: 秋武郁代、 新岐真由美
 控訴審   東京高裁        2007年8月22日判決 1年6月
        裁判長: 中川武隆、 裁判官: 後藤眞知子、小川賢司
 上告審   最高裁第一小法廷  2009年4月13日決定 上告棄却
        裁判長: 櫻井龍子、 裁判官: 甲斐中辰夫、涌井紀夫、宮川光治、金築誠志

 ① 公判が開始されて、女子高生は犯行被害を受けたとする時刻には、遠く離れた静岡県富士市でメールで知り合った他の青年とデートしていたことが、携帯電話の通話記録から暴露されます。誰もが、これで裁判は終わったと確信しましたが、、女子高生は、「家族に青年とのデートを隠そうと16日の件はウソをついたが、1週間前の9月9日に少年たちに襲われたのは事実」と強弁し、検察はこれに沿うように訴因の変更を申立て、裁判所がこれを許可して、審理が続行されたのです。少年たちの自白は、すべて犯行日を16日とするものでした。
 ところで、9月9日は台風接近により、御殿場市は終日雨が降っており、大雨・雷・強風・洪水注意報も出ていました。女子高生の供述では、御殿場駅から中央公園まで行って、芝生の上に倒されたうえで犯行被害に遭い、帰宅するまでに約2時間を要しています。しかし、傘は持っておらず、「濡れていたはずの芝生に倒されて長時間にわたって被害を受けたというのに衣服の濡れも一切ありませんでした。

 ② しかし、一審判決は、女子高生の被害日を変更した後の証言や、捜査段階での少年たちの自白は、犯行日のみ信用できず、犯行事実についての供述は大筋で信用できるという判断を示しました。また、降雨については、「雨は降っていたと認められるが、ぱらつきがあり、こうえんではどの時期にどの程度降っていたかはあいまい」であるから、「弁護人の主張はその前提を欠く」と一蹴、芝生の濡れには言及せずに、少年たちに懲役2年の実刑判決を宣告しました。つまり、市全域が雨であったとしても、特定のピンポイントの地点(公園内の犯行場所)で確実に降雨あったとする記録がないなら、その地点だけは降っていたかもわからないと言っていたのです。直、この時点で少年たちは保釈されました。
 控訴審判決も、一審判決を支持し、ただ「被害者の被害申告にも問題があった点などをよりしん酌する」として、懲役1年6月に減刑する判決を宣告しました。少年たちは、服役した後、既に出所しており、現在、再審請求をめざしています。

12.静岡: 袴田事件

事件の概要

 1966年(昭和41年)6月30日未明、静岡県清水市の味噌製造会社の専務宅から出火、全焼した現場から、刃物による多数の傷がある一家4人(専務42歳、妻39歳、長女17歳、長男14歳)の焼けた死体が発見されました。焼け跡のガソリン臭から、放火であることが明らかでした。工場従業員の犯行という見込みでの捜査がすすめられ、元フェザー級全日本6位のプロボクサーで、体をこわして引退し、事件発生の前年からこの味噌会社に勤務して、現場近くの味噌工場の寮に住んでいた袴田巌さん(当時20歳)が、事件発生から49日後の8月18日に逮捕。寮から消化活動に飛びだしたとのアリバイが証明できなかったこと、事件後左手中指に負傷していたこと(実際には消化活動によって負傷したもの)、そして特に元プロボクサーであったことなどを理由として警察からの追及を受けた結果のことでした。逮捕から20日目に至った9月6日に自白したことにより、9月9日、パジャマ姿で、窃盗目的で侵入・物色中に発見され、そのような場合を予測して用意していたくり小刀で突刺して殺害したうえ、現金などが入った布袋(「甚吉袋」)を奪い、死体にガソリンをかけてマッチで順番に火をつけて焼いたとして起訴されました。

裁判の経過

 一 審   静岡地裁       1968年9月11日判決 死刑
        裁判長: 石見勝四、 裁判官: 高井吉夫、熊本典道
 控訴審   東京高裁       1976年5月18日判決 控訴棄却
        裁判長: 横河敏雄、 裁判官: 柏井康夫、中西武夫
 上告審   最高裁第二小法廷 1980年11月19日判決 上告棄却
        裁判長: 宮崎梧一、 裁判官: 栗本一夫、木下忠良、塚本重頼、塩野宜慶
 再審請   静岡地裁       1994年8月8日決定 棄却
        裁判長: 鈴木勝利、 裁判官: 伊東一廣、内山梨枝子
 即時抗告 東京高裁       2004年8月26日決定 棄却
         裁判長: 安廣文夫、 裁判官: 小西英宣、竹花俊徳
 特別抗告  最高裁第二小法廷 2008年3月24日決定 棄却
         裁判長: 今井功、 裁判官: 津野修、中川了滋、古田佑紀

 ① 一審の公判中である1967年(昭和42年)8月31日、工場内の醸造用味噌タンクの中から、被害者2人の血液型と一致したという多量の血痕が付着した5点の衣類(ズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、スポーツシャツ、半袖シャツが麻袋に入っていた)が発見され、9月12日には袴田さんの実家からこのズボンと生地・切断面が一致する端切れを警察官が「発見」したことにより(弁護団はすり替え=捏造を指摘)、検察は、犯行時の着衣はこの5点の衣類であるとして訴因を変更。
一審の静岡地裁は、自白調書45通のうち,起訴当日の検察官調書以外の44通について、違法な取調べであるとして証拠から排除しましたが、味噌タンクの中から発見された衣類は袴田さんのものであると断定して、死刑判決。
 二審の東京高裁は、このズボンを袴団にはかせる実験をし、装着不能なことを確認しながら、裏地の縮みによるとの根拠のない非科学的見解により控訴棄却。1980年、最高裁の上告棄却により死刑が確定しました。原審では、柔道2段の専務をはじめ4人と格闘して合計40箇所以上も傷を負わせながら袴田さんには左手中指の傷しかない不自然さやその殺害行為の凶器とされた「くり小刀」(味噌樽にこびりついた味噌のケバをとる職人道具)は被害者に致命傷を負わせるには極端に貧弱なもので、また鍔もないため加害者側も手が傷だらけになるはずなのに、袴田さんの傷は前記左手中指にしかない不合理、さらに順番に殺害していく間、誰も助けを呼ぶ声を挙げていない奇怪さなどについては、何も判断しなかったのです。

 ② 袴田さんは、翌81年(昭和56年)、無罪を明らかにする新規・明白な証拠として、袴田さんの捜査段階における45通の自白調書の不可解な変遷過程を分析すれば、真犯人のしらばくれた嘘が暴かれていく過程ではなく、無実の者が捜査での追求で嘘の供述に落ちていく過程としか理解できないこと、また、逆に真犯人であれば知っていなければおかしい事実を知らないこと(「無知の暴露」)、したがって、供述の変遷は袴田さんが無実であることの証明になっていることなどを解明した供述心理学鑑定や、脱出したとされる裏木戸は、実際には出入不能であるのに警察が証拠を捏造していたことなどを明らかにして、再審請求を申立てました。
 しかし、1994年、静岡地裁は確定判決の証拠構造を吟味することなく、有罪心証のみを引き継ぐ立場から新証拠を個別に論難して、申立を棄却してしまいました。
 弁護団は、この棄却決定に対する即時抗告後、5点の衣類が犯行着衣であるという確定判決の認定に疑問を生じさせる鑑定書をはじめ、多数の新証拠を提出していましたが、10年後の2004年、東京高裁第二刑事部は即時抗告を棄却、最高裁も新証拠を過小評価して、2008年3月に特別抗告を棄却しました。同年4月25日静岡地裁に第二次再審請求請求し、現在審理が続いています。

 ③ 2006年プロボクシング協会が支援を開始し、2007年2月には、原審・静岡地裁の死刑判決にかかわった元裁判官の熊本典道氏が「自分は無罪の心証だった」と明かして支援活動を始めるなど、さらには、2010年、劇場映画『BOX袴田事件 命とは』(高田伴明監督、萩原聖人主演)が全国上映されるなどにより、近年、あらためて、袴田事件に対する社会の関心が高まっています。
 袴田さんは、現在東京拘置所に収監されていますが、長い間の拘禁生活によって拘禁症に苦しんでおり、適切な医療処置と処遇の改善運動も再審を求める運動とあわせておこなっています。

13.三重: 名張毒ぶどう酒事件

事件の概要

 1961年(昭和36年)3月28日夕刻、三重県名張市葛尾の公民館において開かれた三奈の会(三重県葛尾と奈良県葛尾の生活改善クラブ)の年次総会終了後、音信会の席上に出されたぶどう酒を飲んだ女性5名が死亡、12名が重軽傷を負うという事件が発生。ぶどう酒から有機燐系農薬(テップ剤)が発見されたため、名張警察署は、殺人事件として捜査を開始、ぶどう酒を公民館に運んだ奥西勝さん(当時35歳)が、事件の翌日から連日の取調べを受けて、5日目の深夜に自供したことにより4月3日逮捕され、4月24日、妻と愛人(いずれも事件で死亡)との三角関係を精算するための計画殺人という荒唐無稽な筋書きにより起訴されました。

裁判の経過

 一 審   津地裁         1964年12月23日判決 無罪
        裁判長: 小川潤、 裁判官: 岡田利一、 高橋爽一郎
 控訴審   名古屋高裁      1969年9月10日判決 死刑
        裁判長: 上田孝造、 裁判官: 斎藤寿、藤本忠雄
 上告審   最高裁第一小法廷  1972年6月15日判決 上告棄却
        裁判長: 岩田誠、 裁判官: 大隅健一郎、藤林益三、下田武三、岸盛一
 5次再審  最高裁第三小法廷 1997年1月28日決定 再審請求棄却に対する特別抗告棄却
        裁判長: 大野正男、裁判官: 園部逸夫、可部恒雄、千種秀夫、尾崎行信
 7次再審  名古屋高裁(一部) 2005年4月5日決定 再審開始
        裁判長: 小出錞一、 裁判官: 伊藤納、 岩井隆義
 同異議審 名古屋高裁(二部) 2006年12月26日決定 再審取消
        裁判長: 門野博、 裁判官: 村田健、 松岡幹生
 特別抗告 最高裁第三小法廷 2010年4月5日決定 破棄差戻
        裁判長: 堀籠幸男、 裁判官: 藤田宙靖、那須弘平、田原睦夫、近藤崇晴

 ① 一審の津地方裁判所は、唯一の物証とされたぶどう酒ビン王冠の歯痕は奥西さんのものとは断定できず、また奥西さんの自白や奥西さんの犯行とする関係者の(ある時期一斉に検察主張に沿うように変更された、ぶどう酒が届けられた時間経過などの)証言は信用できないとし、無罪判決を言渡しました。しかし、名古屋高裁は、自白では有罪認定できないとしながら、王冠の傷痕は奥西さんの歯形と一致するという、当時法医学の権威とされていた松倉豊治・大阪大学医学部教授の鑑定を根拠に、一転して死刑判決を宣告。このような場合、当然に上告することになりますが、上告のシステムは、法律判断を目的とするもので、原則として「事実」を問題にしません。このため、奥西さんは、二審逆転死刑判決に対して事実認定を争う場を奪われたままに、1972年、最高裁第一小法廷の上告棄却により死刑判決が確定しました。

 ② 奥西さんは、再審請求を、1973年(昭和48年)4月15日(第1次)、74年(49年)6月4日(第2次)、76年(51年)2月17日(第3次)、同年9月27日(第4次)にそれぞれ申立てましたが、新証拠を付さずに申立をおこなったことなどから、いずれも2~8月ほどで棄却。1977年(昭和52年)5月18日には、日弁連の本格的支援を受けて第5次再審請求をおこない、二審確定判決が有罪根拠とした歯形鑑定が捏造だったことなどを明らかにしました。しかし、名古屋高裁(刑事第1部)は1988年(昭和63年)12月14日、歯形鑑定(松倉鑑定)の証明力は大幅に減殺されたとしながら、確定判決とは逆に、自白が信用できるとして再審請求を棄却。
これに対する異議申立審で、名古屋高裁(刑事第2部)は、1993年(平成5年)3月31日、白鳥・財田川決定は(再審審理において確定判決の)「証拠構造の組み替え及び(自白の)証明力のかさ上げを禁ずる旨を明示しているものではない」として棄却、さらに、最高裁第三小法廷は、ぶどう酒に到着時間経過の検討は無意味とするなど、これまでの裁判での「攻防」から外れて、まったく新しい事実を独断で認定して、特別抗告を棄却しました。弁護団は、同月30日、当時の名張署長の捜査メモを新証拠として第六次再審請求を出しましたが、名古屋高裁は翌1998年(平成10年)10月8日請求棄却、1999年(平成11年)9月10日には異議申立を棄却し、最高裁第1小法廷も2002年(平成14年)4月8日特別抗告を棄却しました。

 ③ 第7次再審請求に至って、ぶどう酒に混入されたとする毒物は、確定判決が認定した「ニッカリンT」(商品名)ではなかったという新事実を明らかにして、これらの新証拠により、名古屋高裁(刑事第1部)は、再審開始を決定しました。すなわち、事件当時の毒物分析結果によれば、ニッカリンTであれば必ず検出される不純物(トリエチルピロホスフェート)が検出されておらず、そうである限り、毒物はニッカリンTではなくて、別の製薬会社であるS社の、この不純物を入れない製法による農薬の(Sテップ)(商品名)と考えるほかないことが明らかにされたのです。
 
 この決定は、いったん異議審の名古屋高裁(刑事第2部)で「成分分析時に見落とした可能性も考えられる」として取消されました。そして、奥西さん側が、成分分析の過程では、光を当てて発色させるがその発色が弱かったために見落としたのだという、まったく新しい仮想の主張を展開しました。
 最高裁(第三小法廷)は、再審取消決定は「科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、その推論過程に誤りがある疑い」を指摘してこれを取り消す一方で、検察の最高裁段階での新主張については原審では審理されていない(当然のことです)とし、検察主張の「発色問題」についての審理を命じて名古屋高裁に差戻す決定をおこないました。そして、同裁判所(刑事第2部)での差戻異議審では、検察の再審開始に対する異議の理由が消滅しました。しかし検察は、またもや新たな主張をもちだして救済・事件終結の引き延ばしをし、裁判所がこれに「味方」をして、だれも主張していない空想で再審請求を退けたために、最高裁での第二次特別抗告審で争いが続いています。

14.石川: 山中事件

事件の概要

 1972年(昭和47年)7月26日、石川県山中町の林道を約500mわけ入った林道脇の小川で白骨死体が発見され、間もなく身元は同年5月11日から行方不明になっていた同県加賀市のタクシー運転手・出嶋武夫さん(当時24歳)であることが判明しました。死体頭部に陥没骨折があることから、殺人事件として捜査がすすめられ、2日後、知能指数の低い23歳の青年(知能年齢11歳9ヶ月)が逮捕され、家業の蒔絵師・霜上則男(当時26歳)さんとの共同犯行を自供したために、霜上さんが主犯として逮捕されました。霜上さんは、5月14日にこの青年と喧嘩してケガをさせたことにより逮捕・拘留中で、この障害行為については率直に認めていましたが、殺人事件については一貫して無実を主張し続けました。しかし、「共犯者の自白」をもとに起訴されたものです。
 公訴事実は、小遣いに困った霜上さんが、被害者出嶋さんの連帯保証のもとに「共犯者」に、金融業者から25万2000円を借金させて、これを自分のものにするために、まず、5月11日に「共犯者」と共謀して連帯保証人の出嶋さんを殺害したうえで現場付近の谷川の橋下に投棄し、さらに5月14日に「共犯者」を殺害しようとしたが失敗して傷害を負わせただけにとどまった、というものでした(殺人、死体遺棄、強盗致死未遂事件)。

裁判の経過

 一 審   金沢地裁         1975年10月27日
        裁判長: 河合長志、 裁判官: 出口治男、高柳輝雄
 控訴審   名古屋高裁金沢支部  1982年1月19日判決 控訴棄却
        裁判長: 辻下文雄、 裁判官: 石川哲男、 阿部文洋
 上告審   最高裁第一小法廷   1989年6月22日判決 破棄差戻
        裁判長: 大内恒夫、 裁判官: 角田禮次郎、佐藤哲郎、四ッ谷巌
 差戻審   名古屋高裁        1990年7月27日判決 無罪
        裁判長: 山本卓、 裁判官: 油田弘佑、片山俊夫

 ① 裁判の争点は、当然に「共犯者の自白」の信用性となりました。まず、金銭貸借の法理からすれば、債務者の借金を横取りするために連帯保証人を殺害するという動機がそもそも荒唐無稽なものです。殺害については、この自白によれば、「5月11日の夜8時40分頃、霜上さんが運転していたブルーバードの車内で、霜上さんが、被害者の左脇腹をナイフで1回刺した後、被害者を車外へ運び出し、腹部あたりを2回位刺したうえ、『ヨキ』または『マサカリ』の峰の部分で頭部を一撃した」というのがその犯行状況でした。
 ところが、現場の林道は幅員約2mで昼間でも鬱蒼としている場所です。そして、当夜は月のない晩で周囲は漆黒の闇であり「共犯者」の供述する位置からの目撃・視認は不可能でした。また、車内には血痕反応が皆無で(ただし、警察鑑定では自白で示した場所とは違う座席位置から2点の血痕反応があったとしており、争いになりました)、凶器の「『ヨキ』または『マサカリ』も、犯行当時霜上さんが着ていたとされる衣服も発見されていません。ナイフは、その後この共犯者を刺したときのものとされていましたが、傷の形状とは一致しないものでした。さらに、被害者の死体には、左脇腹や腹部には刺された痕跡はなく、供述では出てこない左の肩・胸に刃物で刺された跡がありました。被害者の頭部の傷は直径7mmというわずかな陥没骨折があるのみであり、とどめを刺すために「『ヨキ』または『マサカリ』の峰の部分で頭部を一撃した」なら、その破壊力から頭蓋骨は大きく破壊され、場合によっては脳自体が飛びだすこともあり得ることからは、大きく矛盾していました。
そればかりか、「『ヨキ』または『マサカリ』の峰の部分と被害者の頭蓋骨の骨折の形状もまったく合いません。

 ② 一、二審判決は、まず共犯者の自白にもとづいて、被害者の靴が休耕田から発見されたことを「秘密の暴露」とし、共犯者が犯人であることは間違いないと認定しました。さらに、この靴の投棄は発見現場の位置関係から、自白どおり、自動車を使用して、車内から放り投げておこなったものであり、また共犯者は運転が下手なので、外に人がいたはずと認定。(この靴は、道路から10数m離れた位置で発見されており、車内から放り投げる方法では絶対に届きません。)そして、共犯者の自白の変遷・矛盾については、知能指数の低さが「単独犯行説を否定する一つの有力な証左となる」とし、警察の血痕鑑定にもとづき、その人物は霜上さんであるとしました
 共犯者を刺したときのナイフと死体の傷口との不一致を指摘する弁護側鑑定に対する裁判所の判断は、断定的に「両者が同一ではありえないとするものではな(いから)同一のものである可能性が高い」(一審判決)、「同一物であるとはいえないが刃物でもって左脇腹等を刺突したと断ずることができるから、右事実誤認は判決に影響を及ぼさない」(二審判決)とする奇怪な理屈によるものでした。そして、自白が刺したという箇所と被害者の傷の位置の違いについては弁護側鑑定でも明らかにされましたが、「3個の損傷痕だけは鑑定上一応確実に片刃の刀器によって刺された傷であるといえるもので。、それ以外に刀器による傷がないという意味ではない」から矛盾しないとして、前記同様の奇怪な理屈による判断を示しました。さらには、「『ヨキ』または『マサカリ』の峰の部分で頭部を一撃した」としても加減すれば大きな陥没骨折はないから矛盾しない、などとして霜上さんに死刑を宣告したのです。共犯者に対する宣告刑は、懲役8年でした。

 ③ 上告審の段階で、警察の人血痕を検出したとする鑑定の誤り(予備試験で血液反応が出たことのみで直ちに人血と結論付けている初歩的な誤り)が明らかにされました。判決では、この警察鑑定の初歩的な誤りにはふれませんでしたが、血液型や付着した日時もわからないものであるとともに、検出位置の自白との矛盾、そこから検出されたのであれば関連位置からも検出されるはずなのにそれがないという不自然さを指摘し、本件犯行との結びつきを明確に否定しました。そして、最大の争点であった共犯者の自白の信用性(客観的事実との矛盾)については「想像に基づいて供述しているために生じた」「それらの想像が取調官の質問内容等によって影響された可能性を否定し難い」と指摘し、原判決を破棄、差戻しをしたのでした。
 こうして霜上さんは、差戻し控訴審で無罪となりましたが、事件発生・逮捕から18年を経てのことでした。いま、霜上さんは、伝統産業である加賀の蒔絵師として一層腕を磨く日々を送っています。

15.滋賀: 日野町事件

事件の概要

 1984年(昭和59年)12月、滋賀県蒲生郡日野町の酒類小売販売業(屋号・ホームラン酒店)の店主、池本はつさん(当時69歳)が、28日夜から行方不明になり、翌85年1月18日に町内の宅地造成地で、たまたま通りがかった人によって遺体で発見されました。さらに、同年4月28日、町内の石原山山林で、蕨とりにきていた人により、はつさん所有のベージュ色の手提げ金庫が破壊された状態で発見されました。日野署は、強盗殺人事件として捜査しましたが、難航し、迷宮入りかと思われていました。ところが、事件発生から3年3ヶ月を経た1988年(昭和63年)3月9日以来、同町内に住み、酒店の壺入り(立ち飲み)の常連客であった阪原弘さん(当時53歳)が警察に呼び出され、暴行、脅迫を交えた厳しい取り調べを受けて、11日に自白したことにより12日逮捕、飲み代欲しさに扼殺(手で絞め殺す)して現金5万円と金庫を奪ったという強盗殺人事件の犯人として、4月2日起訴されました。

裁判の経過

 一 審   大津地裁         1995年6月30日判決 無期懲役
        裁判長: 中川隆司、 裁判官: 坪井裕子、片山憲一

 控訴審   大阪高裁         1997年5月30日判決 控訴棄却
        裁判長: 田崎文夫、 裁判官: 久米喜三郎、小倉昌三
 上告審   最高裁第三小法廷   2000年9月27日決定 上告棄却
        裁判長: 千葉秀夫、 裁判官: 元原利文、金谷利廣、奥田昌道
 再審請求 大津地裁         2006年3月27日決定 請求棄却
        裁判長: 長井秀典、 裁判官: 伊藤寬樹、山田哲也
 大阪高裁 2010年3月30日決定 死亡による終了

 ① 公判になって、阪原さんは一貫して無実を訴え、弁護団は「自白と客観的証拠は合致しない」と無罪を主張しましたが、一審の大津地裁は、公判中、検察官に対して密かに、当初主張の殺害時刻(12月28日午後8時40分ころ)と殺害場所(店内)をあいまいにするような訴因の変更を教示。そして、「自白は信用できない」が「状況証拠だけで犯人であることは明らか」として、変更された訴因にもとづき、殺害時刻を12月28日午後8時過ぎころから同月29日午前8時30分ころまでの間」、殺害場所については「店内及び死体発見場所の宅造地を含む同町内若しくはその周辺地域」とする広範な範囲での認定により無期懲役の判決を言渡しました。一方、控訴審の大阪高裁は、一審判決とは逆に「状況証拠だけでは犯人と認定できない」が「自白は信用できる」として控訴を棄却。最高裁第3小法廷も、2000年、上告を棄却し、続いて異議申立も棄却して、阪原さんの無期懲役が確定しました。

 ② 確定後再審をめざす新たな弁護団が組織され、弁護団と運動を支える日野町事件対策委員会が協力し、2001年11月14日大津地裁に対して再審請求をおこないましたが、2006年3月に弁護団の主張のほぼ全項目にわたってこれを理由あるものと認めながら「しかしながら」として空論で退ける手法を連発して棄却、阪原さんは、同月30日大阪高裁に即時抗告を申立て、審理継続中の2011年3月18日、広島市内の病院で死亡しました。(享年75歳)。阪原さんは元もと重篤な持病があり、、服役先の広島刑務所に対して健康配慮を要請する運動が続けられていたところ、2010年7月に急激に体調が悪化して、同年12月には危篤状態となり、広島刑務所と広島地検が慌てて、外部病院への移送・刑の執行停止をおこなったものの回復に至りませんでした。2012年3月30日、遺族(妻子)4人が、大津地裁に対して、第二次にあたる再審請求を申し立てました。

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