えん罪事件の真相を広め、裁判支援、在獄者の処遇改善運動をすすめています

島田事件の救援運動


島田事件の救援運動(その1)

山田善二郎

事件のあらましと捜査

 昭和29(1954)年3月10日10時ごろ、静岡県島田市幸町快林寺の中央幼稚園でお遊戯会が開かれました。午後、催しが終了し園児は帰宅しましたが、佐野久子ちゃん(当時5才)が夕方になっても帰宅せず大騒ぎになり、翌日から警察と消防団など200人で島田市を中心に周辺の村落まで捜索しました。だが13日、久子ちゃんは大井川南方の初倉村(現島田市)坂本の松林の中で、死体となって発見されました。暴行、首を絞めた跡などが歴然としており、致命傷は胸の強打にあるとされました。

犯人を逮捕できない国家警察と自治体警察の合同捜査

 当時の警察制度は、国家警察と地方自治体の警察にわかれていました。警察は、島田市警察署に国家警察静岡県本部と島田市警および周辺6署の自治体警察による合同捜査本部をおいて捜査を開始し、数名の目撃者の証言により、犯人像が浮かび上がってきました。

犯人を見た人びとは証言する

○中野なつさん(当時68歳)正午ごろ、幼稚園のある快林寺から島田市本通の国道に出る途中、青い毛糸の洋服を着た久子ちゃんと思われる幼女と25、6才ぐらいの灰色の背広と黒いズボンをはいた男が、本通りのほうに話しながら歩いているのを見た。この男は面識がない。顔は面長で白い、髪の毛は長く少し油をつけ、分けていた。勤め人に見えた。幼女は「オコシ」のような菓子の入ったセロハン袋をもっていた。
  その後、東海道線の南を横井の畑に行った時、さっきの若い男が女の子を歩かせたり背負ったりして、大井川の方に歩いて行くのを見た。

○長谷川睦さん(久子ちゃんの家にも出入りしていた豆腐の行商をしていた青年)。本通りの「萬(カネマン)という酒屋の裏から快林寺に通じる道を、若い男が久子ちゃんと話しながら歩いてくるのにいき当たった。

○小林和夫さん(久子ちゃんと顔見知りの人)。久子ちゃんと若い男が連れだって駅のほうに歩いて行くのを目撃。

○橋本すゑさん他2・3人(駅の南で砂利採取の手伝い)。若い男が幼女と歩いているのを遠くから目撃。

○鈴木鉄蔵さん(蓬莱橋の橋番で最後の真犯人目撃者)見知らぬ30才近い男が幼女と親しく話ながら橋をわたった。「おいおい」「この橋を渡るには金がいるから払っていけ」と鉄蔵さんがいうと、男は対岸の、山林を指さして「親父さんがあそこで仕事をしているから帰りに払う」と言って、行ってしまったというのです。

 捜査本部は、幼稚園児の大田原松雄くん、鈴木鏡子ちゃんとその保護者からも男の年齢や人相などを聞き犯罪前歴者や変質者、性犯罪の前科者など約350人をリストアップし捜査しました。容疑者と目された人の中には「自白」をした人もありましたが、アリバイが明らかになって釈放される人も数人いました。しかし事件発生後2カ月以上経過したが犯人は逮捕されず、捜査への批判が高まりました。

国警静岡県本部の冤罪でっち上げの手口

 当時、国家警察静岡県本部には、紅林麻雄警部補を主任に稲葉定信警部補、松島順一巡査部長・北徳太郎巡査部長・鈴木恵雄巡査らによる「強力犯」があり、「紅林方式」と言われた、叩いて吐かせる強引な捜査が行われていました。

 このチームが関与した二俣・幸浦・小島などの殺人事件で逮捕・起訴された人びとはいずれも無罪が確定し、丸正事件で有罪とされた人たちは、刑期の終了後も一貫して無実を訴え続けていました。
島田事件の捜査の指揮をとった羽切平一警部補は、国警県本部の紅林の後任の強力班の係長で、紅林の指揮のもと幸浦事件や浜松事件の捜査に関与したことがある人物でした。

 また赤堀政夫に拷問を加えた刑事の一人、稲葉定信は、赤堀の主任弁護人・鈴木信雄弁護士が無罪とした昭和26年3月の榛原郡白羽村放火未遂事件では、証拠物件を偽造したことが発覚して日弁連や検察庁で大問題になった人物です。彼は31年2月に発生した相良町の放火事件でも、被疑者を拷問してウソの自白をさせ、検察庁がそれを見抜いて不起訴としたという経歴の持ち主でもあります。

 この、叩いて吐かせるという取調べの手口は、つい最近暴露された愛媛県警の内部文書「被疑者取調べ要領」や、大阪・おやじ狩り事件の被疑者とし逮捕した少年たちに拷問を加えてウソの自白をさせた大阪府警の手法を見ると、警察の悪しき伝統の一つとして今日まで流れていることが明らかです。

赤堀政夫(当時25歳)の逮捕と自白強要・裁判の経過

 赤堀政夫は、幼いときに脳膜炎を患い、精神医学では「魯鈍」といわれる軽度の精神薄弱者で定職がなく、この事件の当時は放浪生活をしていました。事件後3か月近く経過した5月24日、彼は岐阜県美濃太田から犬山方面に向かっていたところを警察官に職質され、氏名や本籍などを正直に答えました。島田警察が全国手配している者の中に赤堀の名前があることを記憶していた警察官は、彼を鵜沼の派出所に同行し島田署に連絡、“殺人犯人”として逮捕されるなど夢にも思わない彼は、警察で飯を食わしてもらいながら「島田に帰りたい」と、島田署員が迎えに来るのを心待ちにしていました。

 赤堀は、事件当時のアリバイから追及され、事件前後は放浪生活をしていて、神社のお賽銭を盗んだことなど正直に供述し、5月25日、窃盗の容疑で逮捕されましたが、久子ちゃん殺しについては「白」として釈放されました。
 しかし警察は、彼を自宅に帰すのではなく、金谷の民生寮に泊るように手配し、「有力容疑者つかまる」との報道に心配した兄の赤堀一雄には、そのことを教えなかったのです。何も知らない赤堀は、寮の掃除などして楽しそうに過ごしていました。

 そして3日後の5月28日、警察は彼を「お賽銭泥棒」の犯人として再逮捕したのです。典型的な“別件逮捕”です。取調べは島田署や署長官舎の8畳間などで行われました。彼は、「羽切平一、相田兵市、山下馨、秋山三郎、飯田宙一、清水初平、稲葉定信といった刑事たちが、私の目の前で子供を連れ出すところやごうかんする格好を、手まねや身振りで教えてくれるのです(一審の上申書)」。「私が知らないというと、かんかんに怒り、両手で首を絞めつけたり、両腕をつかんで逆にねじったりしたんです。便所にも行かせてくれず、調べ中に一回小便をもらしてしまって、下着がグジョグジョになってしまったんです(再審請求出張尋問)、と厳しい拷問を訴え続けました。

 こうした拷問でウソの自白を強制、作り上げた警察官調書は16通、検察官調書は6通に上り、赤堀は殺人犯人として起訴されました。
裁判は次のような経過を経て彼は無実の死刑囚とされ、差し戻し審で無罪判決を獲得するまでの32年におよぶ間、死の恐怖におののきながら獄中生活を強いられたのです。

33年5月23日 静岡地裁で死刑判決
35年2月17日 東京高裁で控訴棄却
12月15日 最高裁で上告棄却 
37年2月28日 第1次再審請求棄却
39年10月3日 第2次再審請求棄却
41年6月 8日 第3次再審請求棄却
52年3月11日 第4次再審請求棄却
58年5月24日 東京高裁が第4次請求棄却決定を取り消し静岡地裁に差し戻し
61年5月30日 静岡地裁再審開始決定
平成元年1月31日 無罪判決・検察側控訴せず確定

(つづく)

島田事件の救援運動(その2)

山田善二郎

雪冤に立ち上った二人の弁護士

県会議長の鈴木信雄弁護士

 6月5日、弟政夫さんのことを案じた兄の赤堀一雄さんは、懇意にしていた近所の共産党員で国民救援会の会員・滝川恵一さんの紹介状を持って鈴木信雄弁護士を訪問、政夫さんの弁護を依頼しました。
鈴木弁護士は多くの冤罪事件の無罪を獲得しており、自民党の静岡県会議長を歴任するなど、各界から厚い信望がよせられていた著名な弁護士でした。また一雄さんが勤務していた「東海パルプ株式会社」の顧問弁護士でした。事件発生の10日には、自分はもちろん島田市内で政夫さんを見た人は一人もいないことなど、切々と訴える一雄さんに心を動かされ、弁護を引き受けました。
 拘置所で初めて赤堀政夫さんと面会した時、政夫さんは接見室の隅に引っ込んだまま顔をうつむけ目玉をあげて、脅えるように鈴木弁護士の顔を見ていたという。その直後、鈴木弁護士の連絡を受けた、兄嫁の睦さんが政夫さんに面会、「鈴木先生は東海パルプの顧問弁護士で、懇意にしている滝川さんが非常に敬服している人だから、洗いざらい相談しなさい」と説得。二回目の面会をした時、政夫さんは仕切り網を破ってすがりつきそうに無実を訴えたと、鈴木弁護士は語っていました。
 鈴木弁護士からアリバイを聞かれた政夫さんは、かつて無罪とした冤罪「白羽村放火未遂事件」の犠牲者と同じように、政夫さんは「そんなことより真犯人を早く捕まえればすぐわかる」と訴えたことや、彼の事件前後の生活状況などから、政夫さんの無実を確信するようになりました。

自由法曹団の大蔵俊彦弁護士

 滝川氏は、第1回公判の直前、一雄さんを大蔵俊彦弁護士に紹介しました。大蔵弁護士は30歳、自由法曹団に所属し松川事件の弁護人の一人であり、静岡で開業して労働運動の弁護活動を行っており、鈴木弁護士とともに赤堀さんの弁護を引き受けました。
 二人の弁護士は、何回も拘置所に通って政夫さんと面会し、彼が3月3日兄の家を出て19日に島田に戻るまですごした17日間の放浪生活の模様を克明に綴った上申書を提出しました。裁判所は、彼が寝泊りした上野の地下道や神社などの絵を描かせました。彼は、放浪の画家として有名な山下清のように絵が上手でした。
 鈴木、大蔵両弁護士と兄の一雄さんは、政夫さんのアリバイを明らかにすべく、彼が描いた絵を参考に、彼から聞き取った場所や建物などを精力的に調査しました。
 東京を調査した鈴木弁護士は、政夫さんが述べたとおり、3月7日には上野駅近くの映画館で「ぬれ髪の権八」が上映されていた事実や、その日はみぞれが降っていて寒かったという彼の記憶の通り、雪が降っていた測候所の記録を入手しました。平塚付近を調べた大蔵弁護士は、政夫さんが12日の夜は大磯署に泊められた事実を大磯警察署で確認するなど、一つひとつ事実に基づいて彼のアリバイをつきとめ、事件前後の彼の放浪の旅を、以下のように裏付けていきました。
 ○3月3日 兄から小遣いをもらって家をでた。汽車で静岡まで行き、東に向かって歩き、由比駅で風呂敷包みを兄の家に送り返した。さらに東に歩き、富士、沼津、三島を経て熱海、小田原を過ぎ、5日の夜は鴨ノ宮海岸の小屋で寝る。
 ○6日 鴨ノ宮から平塚に出て、電車で上野駅についた。
 ○7日~9日 上野駅裏で、他の浮浪者と一緒に焚き火をし、駅の地下道で寝た。駅近くに映画「ぬれ髪の権八」の看板が立っていて、その横の映画館は新築工事をしていた。9日には神田駅のガード下の古物屋で拾い集めた金物を売り、常盤公園の公衆便所で寝た。
 ○10日 (殺害事件の当日) 東京から西にむかい、横浜から戸塚にむかう国道の左側の二つ目のお宮で寝た。
 ○11日 横浜から藤沢方面に歩いた。
 ○12日 浮浪者の岡本佐太郎さんと一緒になり、平塚付近の稲荷でたき火をして失火、警察署に突きだされ一晩泊められた。
 ○13日 早朝大磯署を釈放され、岡本さんと一緒に西下し、箱根を超えた。
 ○17日 由比で葬式にあい、握めしをもらって食べた。
 ○19日 島田に戻ったが兄の家には帰らず。
 ○20日 行くあてがないので、刑務所に入れてくれと掛川の警察署に出頭したが相手にされなかった。

死刑判決とその問題点

 事件発生から3年後の昭和32年3月29日、第一審の最終論告で検察官は、「社会秩序維持のため、かかる犯人は社会共同生活の不適格者として排除抹殺しなければならない」と死刑を求刑しました。
 最終弁論で鈴木、大蔵両弁護士は、赤堀自白は強制されたもので任意性も信用性もないこと、アリバイは歴然としていること、証拠の石は犯行に使われた凶器ではないなど強く主張し、無罪を求めました。
だが、33年5月23日、静岡地裁の判決は死刑。予断と偏見が満ち溢れていました。
 「被告人のような知能の程度の人間が、2年余を経過した12回公判ちかくになって、天候という通常ありふれた事象についての記憶を次第に明確にしたというのは、ただちに首肯し難い」「真実被告人の記憶に基づくものであることは疑わしいと言わざるを得ない」など、あたかも弁護人がウソの事実を吹き込んだといわんばかり、罵っているのです。
 さらなる驚きは、昭和35年2月17日、控訴審判決です。一審判決は「被告人の浮浪癖と性格偏倚知能程度の軽度の精神薄弱者であることによって理解できる」と断定したのです。この判決を宣告した尾後貫荘裁判長は、戦前、日本共産党に加えた治安維持法による大弾圧、3・15、中間、4・16事件の公判で右陪席として犠牲者に過酷な刑を宣告し、戦後は、東京・青梅事件の控訴審で、拷問によって作られたウソの自白を真実のものとして無実の者を「有罪」とした一審判決を支持し、被告人ら全員の控訴を退けた人物です。

 最高裁は、二審判決からわずか10カ月後の同年12月15日上告を棄却し、赤堀さんは絞首台のある宮城刑務所仙台拘置所に送られました。

虚構の犯罪を組み立てた3本の柱

 有罪判決は、重大な3つの虚構の柱で組み立てられた、不正義に満ちたものです。

第1の柱は、赤堀さんを拷問して作り上げたウソの自白調書を真実としたことです。

 判決は、事実によって明らかにされた赤堀さんのアリバイを予断と偏見にみちた眼で歪めて、強いられた殺害のウソの自白を真実のものとしたのです。
 たとえば、3月9日の夜、静岡大学の裏山の「小屋」に泊まったとの政夫さんの自白調書が、大長村の火葬場に泊まったと変えられたのは、その小屋にはカギがかけられていて人が入ることは不可能だったからです。彼が寝たとされた静大島田分教場裏の農小屋を調べた2名の警察官の報告書は「赤堀に関する聞き込みが何ら得られなかった」と書かれています。
 しかし判決は、「被告人が判示の如く習性として諸処を放浪している事績にかんがみれば、いつ、どこを放浪していたかということについて明確な記憶を持っていなかったと認めることが、判示のごとき被告人の知能程度に照らしても自然である」と乱暴に断定し、彼のアリバイを否定したのです。
 また、藤沢警察署員の証言で裏付けられている、事件2日後の12日の事実について判決は、被害者を殺害した「その直後、速やかに遠隔の地に逃亡したであろうことを推測するに難くない」と荒唐無稽な想像を働かせて、赤堀さんを犯人だと断定しています。
 すでに述べたように、真犯人の目撃者は一様に、犯人はこざっぱりしており、勤め人風の男だったと証言しています。1週間以上ものあいだ放浪の旅をつづけていた知的障害を持つ人間が、にわかに髪を分けて、こざっぱりとした姿になり変って自分の出生地に出現したが、家族や知人とも顔を合わせず、白昼、だれからも怪しまれることなく、言葉巧みに幼女を誘拐して殺害するや、すぐさま再び、藤沢警察署員の証言にあるように、「アカじみて臭くて近づけない」ほどの姿に変身して、なんら悪びれた様子もなく警察署に留置され、釈放された翌日から再び放浪の旅を続けるとは、妖怪変化というほかありません。
 ところで、被害者を幼稚園から連れ出して蓬莱橋を渡るまでの道のりについての彼の「自白調書」は、きわめて整然と述べられています。その理由は、多くの目撃者によって明らかにされた真犯人の行動を、警察官が赤堀さんに吹き込んで調書を作ったからです。だがその前後、快林寺への侵入や殺害時の行為などの供述は二転三転しています。それは、そのような行為は経験したことがない彼に、取調べた警察官があれこれと想定をめぐらして、「ああだろう」「こうだろう」と自白を迫り、政夫さんはそれに迎合して述べたからです。
そうした事実に目をむけることなく判決は、「かような生活歴においても、本件のごとき事件につき、被告人が相当鮮明に記憶しているとしても怪しむには足らない」と一刀両断に言い切っているのです。

偽造された証拠物件 

第2の柱は、赤堀政夫さんは、偽の証拠物件で死刑を宣告されたことです。

 それは、幼女を殺害した唯一つの証拠とされたコブシ大の石と、真犯人の足跡です。凶器とされた石は、赤堀逮捕の前に警察署にあったのです。
 島田市警察の相田捜査課長は一審で、「赤堀が石で殴ったと自白したので実況見分したら被害者の足元近くの落ち葉の上にあった」と証言しました。判決はこれが致命傷を与えた凶器と断定しました。しかし、力いっぱい殴ったとすれば、被害者の血液やリンパ液などが付着しているはずでが、そういうものは全く見られません。鑑定もせず、実況見分の際は犯人を立ち会わせるのが捜査の常道ですが、赤堀さんを一度も現場に連れて行っていません。
 この事件を取材していた静岡民報記者(のちサンケイ新聞島田通信部)の石沢岩吉さんは、この石が、死体発見直後、つまり赤堀が逮捕される以前に島田署内にあったとのべていました。「死体発見の当日、現場に行くと死体の傍ら(頭の左横50~60㌢)に石が落ちていた。翌日か翌々日、島田署の刑事部屋を訪れ、それと似ている石が机の上に置かれていたので警察官に確かめると、凶器だと教えてくれた」。石沢さんは54年7月の検察官調書でこのことを正直に述べております。
 これが、再審請求の段階で白日のもとに晒され、再審開始決定の重要な理由の1つになったのです。(詳細は、後で述べます。)

大井川の河原の足跡は赤堀の無実を示すもの

 もう1つの決めて、赤堀の靴跡だとされた足跡はどうでしょう。
稲葉定信刑事は、東京高裁で、「現場・大井川の河原の足跡は、かかとが大きく馬蹄形が特徴、神戸で製造された『丸熊印』のゴム長。赤堀が盗んだ靴は『丸熊記』との報告を受けている」と証言しました。だが赤堀さんが履いていた靴は、彼が3月3日由比町の民家から盗んだ「三つ馬印」のものです。
東京工業大学・平沢弥一郎教授の鑑定により、現場で採集された犯人の靴跡の写真は、ゴム長ではなく短靴だったことが判明しました。河原の足跡は靴の先端がとがっているが、ゴム長の先端は丸い。大きさは27~27・5㌢、土ふまず付近の幅は6・2㌢、甲付近の幅は8・6㌢。赤堀さんのそれは22㌢、7・1㌢、9・5㌢。明らかにサイズが違っており、赤堀さんを有罪にした証拠が、ここでも無罪の証拠に大きく転化したのです。

良心を失った法医学者の非科学的鑑定

3つ目の柱は、唯一つで最大の証拠とされた石は凶器だと断定した法学者の鑑定です。

 裁判は、昭和31年10月22日の第20回公判の最終弁論をもってすべて終了しました。鈴木、大蔵両弁護士は、検察官の論告を厳しく批判し、赤堀自白の任意性と信用性の問題や、アリバイなどについて、明らかにされた証拠をもとに強く無罪を弁論しました。
 それからおよそ2カ月経過した12月11日、裁判所は突如、職権で公判の再開を決定し、当時法医学の権威といわれていた古畑種基氏に、鈴木完夫静岡県警察医の死体鑑定の鑑定を依頼したのです。古畑氏(当時東京大学医学部法医学教室の教授)は、のちに東京医科歯科大学法医学教室の教授を経て、警察庁科学警察研究所長となった人物です。
 死体が発見されたその日におこなわれた鈴木医師の『死体鑑定書』には、つぎのように明記されています。
 ○被疑者の左胸第4肋骨と第5肋骨の間に、0・7センチ×1・0糎の傷と、2・0糎×0・7糎の傷がそれぞれ一個あり、その傷は“革皮様化”している。
 ○胸と陰部の傷は”生活反応“が全く認められないことにより、死後のものと考えられる。
 ○死因は“頚部扼頚”と推定される。

 これは、生きていた被疑者の胸を石で強打したという赤堀自白とはまったく合致しません。真犯人は、被害者の首を絞めて殺害したのちに暴行をしたのであって、「最後に首を絞めた」という“赤堀自白”は真実でないということが、医学的に実証されたのです。ならば、「疑わしきは被告人の利益に」の憲法上の大原則に沿って、無罪を宣告すべきだったのです。なぜ裁判所は、弁論を再開し古畑教授に鑑定を依頼したのでしょうか。
 古畑教授は、なんら医学的な根拠も示さずに、被害者の「胸の傷に生活反応がないことを持って死後の受傷と見るのは早計。久子ちゃんのような幼児の場合には血管の発達が充分でなく、毛細管の血圧が成人のように大きくないため、生前の受傷でも皮下出血がないことがある、との鑑定書を提出しました。そして再開公判の法廷で
 ○被害者の胸の傷を死後のものとの判定は正しくない。
 ○胸部の傷は鈍体の作用によるもので、おそらく生前のものである。
 ○傷は証拠の石で殴打すればできると判定する
と証言したのでした。

 裁判所は、この科学を無視した鑑定にしがみついて赤堀に死刑を宣告しました。権力に迎合した科学者の良心を失った偽りの鑑定を強力な証拠にして、捜査当局の致命的ともいえる誤りを救済し、無実の者に「死への道」を強いたのです。
 ちなみに島田事件と同様、死刑確定後に再審無罪となった松山事件や、弘前大学教授夫人殺人事件、財田川事件などの有罪判決は、科学を無視した古畑鑑定を強力なよりどころとされたのです。

(つづく)

島田事件の救援運動(その3)

山田善二郎

 このコーナーは、過去実際にあった再審・冤罪事件に取り組んだ方などに、その思い出やどのような思いで取り組んだか、またその教訓は何かなどを自由に書いて頂くものです。今回は、前号に続き、島田事件についての山田善二郎さん(国民救援会顧問)の3回目(最終回)です。

古畑鑑定の誤りを糺した真実を愛する科学者の良心

 しかし、第4次再審請求の事実取調べで、弁護団が提出した九州大学名誉教授・北条春光鑑定、東京医科歯科大学法医学教室主任教授・太田伸一郎氏、京都大学医学部法医学教室・上田正雄教授の鑑定により第一、被害者の胸の傷は生前のものと断定した古畑鑑定は、初的で重大な誤りである。第二、被害者の胸の傷は、証拠とされた拳大の石では絶対にできえない。ことが明白にされたのです。

 48年8月と11月、静岡地裁で証言した太田教授は、「死後の場合は凝血は起こらない」「乳幼児は成人に比べて乳頭層の血管は少さいが、六,七才になると成人と大差はない」したがって「生前の傷であるならば、挫滅した筋肉の周辺には、生活反応が必ずなければならない」「『鈴木鑑定』の“凝血は認められない”との記載は生活反応がなかったことを示している」すなわちこの傷は死後のものである」と、明快に『古畑鑑定』の誤りを指摘しました。古畑氏が退任して1 年後にその大学の法医学教室の教授となった太田教授が、あえて先輩教授の誤りを指摘した、そこに真実に忠実な科学者の良心と勇気が感じられるのです。

 ところで、島田事件の再審裁判に、古畑教授の弟子で石山昱夫東大教授が検察側の依頼を受けて鑑定証人として出廷しました。彼は、法廷で「東大法医学教室の権威を守るため」と大見を切りましたが、弁護側の鋭い反対尋問により、古畑鑑定と同じように、非科学的な鑑定であることをさらしたのでした。石山氏は、病死した奥さんを殺したとして横浜地裁に起訴され、昭和57年11月無罪が確定した山下事件や、福岡高裁宮崎支部で再審開始決定が棄却された鹿児島・大崎事件の再審請求審でも、検察側の立場に立って証言した人物です。

救援運動

 第一審の裁判が行われていたころ、島田市内で松川事件の支援運動を行っていた人々が、島田事件に関心を寄せ、市議会議員ら、約50人で「島田事件対策協議会」を組織し、支援運動を始めました。仙台高裁で松川事件の差し戻しの審無罪判決がなされた昭和三六年、最高裁判決で赤堀の死刑が確定した翌年でした。

 翌37(1962)年9月14日、無実を訴えていた藤本松夫さんが、再審請求中に突然、福岡拘置所で処刑されました。これは獄中から再審を訴えていた死刑囚とその家族、支援団体に深刻な衝撃を与えました。そして9月25日、日本国民救援会の呼びかけで帝銀、三鷹、免田、松山、福岡、小松川など死刑確定事件の支援団体と支援者約60名が集まり、「死刑確定事件連絡会義」を組織し、法務大臣への抗議や死刑執行阻止の統一行動や、支援運動の経験交流などを申し合わせました。(再審・えん罪事件全国連絡会ニュース第31~33号参照)

島田事件の救援運動(その4)

山田善二郎

赤堀さんの救援運動

 松川事件の支援運動が大きな盛り上がりを示していたころ、島田市議会議員など約50人が、「松川事件対策協議会」を組織して活動していた人びとがこの事件に関心を寄せ、「島田事件対策協議会」を組織し、無実を訴える赤堀政夫さんの支援運動を始めました。

 だが昭和35年12月、最高裁は上告を棄却、死刑判決が確定した赤堀さんは仙台市の郊外の宮城拘置所に移送されました。ここには帝銀事件・平沢貞道、牟礼事件・佐藤誠、松山事件・斉藤幸夫さんら無実を訴え再審を求めていた死刑囚が収容されていました。
 
 アメリカ軍の占領当時、絞首台がある巣鴨の東京拘置所はアメリカ軍が接収し「スガモプリズン」と呼ばれていました。そのため東京高裁管内の死刑囚は、絞首台のある宮城拘置所に送られ、講和条約の発効後もしばらく続いていました。ここに拘留されていた松川事件の犠牲者への差入れや面会などの窓口になって活動していた救援会宮城県本部の事務局長・小田島森良さんは、同じ拘置所から救援を訴えている無実の死刑囚に定期的に面会、激励を行っていました。
 ところで、昭和37(1962)年9月14日、無実を訴えていた藤本松夫さんが、再審請求中に突然、福岡拘置所で処刑されました。これは獄中から再審を訴えていた死刑囚とその家族や支援団体に強烈な衝撃を与えました。

 同月25日、日本国民救援会の呼びかけで、帝銀、三鷹、免田、松山、福岡、小松川など死刑確定事件の支援団体と支援者約60名が集まり、「死刑確定事件連絡会義」を組織し、法務大臣への抗議や死刑執行阻止を求める統一行動や、支援運動の経験交流などを申し合わせましました(再審・えん罪事件全国連絡会ニュース第31~33号参照)。

 これが現在の再審えん罪事件全国連絡会へと発展してきたことはすでに述べたとおりです。

難波英夫元会長 島田事件など無実の人々の支援を呼びかける
 
 昭和43(1968)年2月、難波英夫会長は、理論社から『死を見つめて=無実を訴える九人の手記』を編集・発行し、先にあげた帝銀事件や牟礼事件など死刑確定囚と八海事件や仁保事件など、裁判中の冤罪事件の犠牲者支援を広く世論に呼びかけたのです。

 その中の“島田事件・赤堀政夫さんの場合”には、大蔵俊彦弁護士によるこの事件と誤った裁判の問題点についての論文とともに、救援会宮城県本部事務局長・小田島さんが‘恐怖裁判の典型’だと題して、力をこめて赤堀さん救援を呼びかけています。また赤堀さんが獄中から切々と訴えている手紙も掲載されています。以下、その一部を原文のまま紹介します。

「……中略……なにわさま有がとうございます。心から感謝しています。握手 がんばりましょうね、暑中お見舞い申し上げます。……中略……難波英夫様(会長)御役員一同さまへ ではこれにてさようなら 赤堀政夫 38歳 島田事件無実死刑囚であります。」

 彼のわたし宛の手紙には、いつも「カワイソウナ カワイソウナ赤堀政夫を助けて下さい」という言葉で結ばれていました。

 国民救援会中央本部は、赤堀さんの支援運動を静岡県内から全国に広めるために、地元の島田事件対策協議会と共同して、パンフ『無実を訴える赤堀君の再審を開かせるために=島田事件の真実』を発行しました。これには治安維持法による最後の弾圧事件・横浜事件の犠牲者の一人で、残酷な拷問を体験した評論家の青地晨さん、障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会会長・矢島せい子さん、日本子供を守る会会長・羽仁説子さんら著名人の訴えが寄せられています。また、静岡県労働組合評議会と静岡県教職員組合の連名の、静岡地裁・伊藤昭七郎裁判長への「島田事件の再審開始を求める決議」も掲載されています。

 国民救援会は、広く文化人の支援と地元静岡での支援運動の強化につくしたのでした。その運動と静岡県内での白鳥事件支援運動や争議団などとの連帯が進み、1975年3月2日本国民救援会静岡県本部が結成され、中央本部と県本部共催による現地調査は、マスコミに報道され、多くの国民の視線が注がれるようになったのです。

アリバイ戸川神社が発見された

 ところで事件発生した当時は放浪生活をしていた赤堀政夫さんは公判で、幼女が殺害された3月10日は横浜から戸塚にむかって歩いていた国道の左側二つめの「神社」に泊ったと、懸命にアリバイを訴えていました。だが、自動車に乗せられて実地検証をしたとき、テクテクと歩いた時の感覚が一致せず、この神社を見逃して、はるか西の「光安寺」を指してしまいました。

 裁判所は彼のアリバイを認めず、犯人と断定したのです。その神社・『戸川神社』がついに発見されました。救援会東京・荒川支部の桧山義介さんが、赤堀さんの供述どおり横浜から国道を歩いて探し出したのでした。『戸川神社』は、彼が裁判所に提出した上申書に書いた絵図と合致し、横浜からの距離も一致したのです。それは、次にのべる第4 次再審請求の段階の時で、赤堀さんの雪冤にとって極めて貴重な証拠の一つでした。

自由法曹団が弁護に参加

 昭和44(1969)年、赤堀の雪冤に専心していた鈴木弁護士は、大蔵弁護士を通じて自由法曹団に支援を求め、これを受けた自由法曹団から、関原勇、佐藤久、田中敏夫、田中英雄、大国和江が参加し、同年5月9日第4次再審請求を提出しました。

 自由法曹団は、再審請求事件の困難な状況を打開するために、昭和46(1971)年、白鳥事件、免田事件の弁護団を中心に、全国の再審弁護団に呼びかけて、東京で「全国再審事件弁護団会議」を行いました。 
 翌47年7月、日弁連人権擁護委員会内に「再審問題研究会」が設けられ島田事件の支援を決定するなど、日弁連の再審請求事件への取り組みが一段と強化されるようになり、同時に小田中先生をはじめ多くの大学教授の尽力によって、再審・えん罪事件への関心と支援は学者の中にも広がっていきました。

再審事件全国連絡会での相互援助と経験交流、白鳥運動

 このころ再審事件は、赤堀さんの請求が3度も退けられた事実が示しているように、再審事件は「針の穴をラクダがとおる」といわれるほど、もっとも困難な裁判でした。この困難を打開して死刑確定事件をはじめ再審請求事件の支援運動を強化するために、自由法曹団幹事長(当時)・竹沢哲夫弁護士の提唱で、昭和48(1973)年、赤堀さんら無実の死刑囚の拘置所がある仙台で、再審事件支援者の集まりが開かれました。
 
 これには地元の松山事件や島田事件などなど再審請求7事件の支援団体代表および救援会中央本部と7都道府県本部支部などの代表53名が参加しました。この集会で「再審事件全国連絡会」の結成が確認されたことについては、「全国連絡会ニュース32号」で紹介されました。

 これを機に各事件の相互援助と経験交流が促進され、とくに再審裁判の先頭を切っていた白鳥事件が大きな役割を果たしました。再審冤罪事件の支援運動は、当初の死刑確定事件連絡会から再審事件全国連絡会、再審冤罪事件を支援する全国連絡会を経て、今日の「再審・えん罪事件全国連絡会」に至っています。

支援運動の中に持ち込まれた混乱

 島田事件第4次再審請求は、昭和58(1983)年東京高裁が静岡地裁の請求棄却決定(昭和52年3月1日)を取消し差戻し、61(1986)年5月29日、ようやく静岡地裁で再審開始決定にこぎつけたのでした。この再審裁判が進行中、いわゆる過激派といわれた集団の一部が、この事件を“障害者差別裁判”と決めつけて、“赤堀奪還”を叫ぶ集団が、救援会の呼びかけた現地調査に暴力的に介入するなどの混乱が持ち込まれました。
  
 この集団は、狭山事件を“部落差別裁判”と断定してこれを認めないものは差別者だと断定、糾弾闘争なる不法行為をほしいままにした部落解放同盟と、これに同調して救援会が催した集会を妨害するなどした一部の過激派集団と同一の路線上にあったように思えます。

 この事件を彼らが“障害者差別裁判と規定した根拠は、一審で死刑を求刑した検事が論告の中で、赤堀さんが「具体的な事実を踏まえて種々の主張をするのは、赤堀の知能程度からみて赤堀の記憶か否か疑わしい」と決めつけているところや、二審判決が理解しがたい一審判決のひどい内容を「被告人の放浪癖と性格偏倚と知能程度の軽度の精神薄弱者であることによって理解できる」と断定しているところなどあるものと思います。

 しかし大衆的裁判闘争すなわち国民による裁判批判運動は、法廷において明らかにされた事実に基づく道理ある説得こそが基本であり、独断的な差別論に同調を強いたり、それに賛成しないものを差別者として敵対行動や排除などの行為に出るのは、明らかに救援運動とはいえるものではありません。救援会の赤堀さん支援運動はこの困難に耐えながらつづけました。

 各地でたたかわれた帝銀、牟礼、徳島、名張など再審請求が相次いで棄却されるなどしのぎをけずる裁判のなかで、昭和50(1975)年5月20日、最高裁第1小法廷の白鳥決定が、翌51年10月12日には財田川事件の特別抗告審の原原決定取り消し高松地裁への差し戻し決定が出され、再審事件の前途に展望が開けたのでした。

 昭和52(77)年2月仙台高裁で弘前事件再審無罪、同年7月広島高裁で加藤事件の再審無罪が確定します。そして死刑確定事件では、昭和58(1983)年7月、熊本地裁八代支部で免田事件が、翌年3月12日には高松地裁で財田川事件が無罪となり、翌々59(1984)年7月には松山事件が無罪となり確定しました。相次ぐ再審無罪の流れと再審事件への世論の昂揚の中で、平成元(1989)年1月31日、静岡地裁で赤堀さんは無罪を宣告されました。
 逮捕されて実に60年も後で、彼の頭は白髪に覆われていました。

再審・冤罪事件の新たな高まりを勝利に結実させ、さらなる道を切り開こう

 島田事件の裁判の後、再審裁判の動きは定着したかのような報道がマスコミの中でながれました。しかしいま、裁判所が治安機関のように変質しているという批判が流れるように、拙速・厳罰裁判が顕著になっています。同時併行して、再審請求を棄却する裁判が相次いでいます。

 だが、「逆流現象」といわれるこの状況に立ち向かい、再審開始の道を切り開いている布川事件、再審開始決定取り消しの取り消しを最高裁に求めている名張事件、ついに再審裁判が始まった足利事件など、真実と正義を明らかにする裁判闘争は、世論の支援を受けながら着実に進んでいます。これら事件のたたかいはその他の再審・冤罪事件に大きな励ましとなっており、同時にまた裁判を通じて、日本の民主主義の未来を築くたたかいの重要な役割をはたしているのです。勝利のために力を尽くしましょう。

(終わり)

powered by Quick Homepage Maker 4.16
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional