えん罪事件の真相を広め、裁判支援、在獄者の処遇改善運動をすすめています

引野口事件、警察のでっち上げと国民の包囲網

引野口事件、警察のでっち上げと国民の包囲網

「片岸みつ子さんを守る会」元事務局長   山本和也

 このコーナーは、過去実際にあった再審・冤罪事件に取り組んだ方などに、その思い出やどのような思いで取り組んだか、またその教訓は何かなどを自由に書いて頂くものです。

1、事件の発生と児童の目撃

 2004年3月24日夕刻、北九州市八幡西区引野口で火災が発生し、焼け跡から男性の焼死体が発見されました。この火災で全焼したのが片岸みつ子さんが生まれ育った実家で、焼死体で発見されたのが実のお兄さんだったのです。焼死体には、胸部に一突きの刺し傷があったことから殺人・放火事件として捜査されることになりました。
 実は、この火災の直前、実家の玄関前の公園で二人の男の子が遊んでいました。この少年が、「マスクをしたおじちゃんが家から出てきて、公園の隅に置いてあった自転車に乗って行った」「僕があいさつしたけどおじちゃんは黙って行った」「そのあとに煙が出てきた」と供述した調書が作成されています。当然この線で進められるはずの捜査が、なぜ片岸さんに向けられたのでしょうか。

2、警察にとって願ったりの別件と思惑違い
 片岸さんのお兄さんは、10年来のアルコール依存症で、奥さんや子供さんと別居していました。片岸さんは、外出できないお兄さんの食事・洗濯の面倒や金銭の管理をしてあげていたのです。お兄さんは片岸さんに対して「俺にもしもの事があったら、預けてある口座からお金を出して、俺とおふくろの葬式をしてくれ、娘にもお金を渡してくれ」と言っていました。
 片岸さんは、この事故(当初は事件とは思わず、火災事故と思っていた)の翌日、お兄さんの後見人ともいうべき方と相談の上、かねてからの言いつけに従って預金を引き出しました。これが警察にとって願ったりの別件(窃盗事件・5 月23 日逮捕・6 月13 日起訴)として使われたのです。
 もう一つの別件は、別居中の奥さんがお兄さんの家宅を使って行っていた公文式の学習塾をめぐるトラブルです。生徒たちの出入りの気ぜわしさもあって、明け渡しを求める一方、仕切りを設けた事をもって威力業務妨害として立件(7 月1 日逮捕・7 月22 日起訴)されました。実はこの事件の2 年も前の出来事で、その当時は、民事不介入として警察も何ら問題にしなかった事案なのです。
 これからは私の推測ですが、警察は当初、少年が目撃した「マスクをしたおじちゃん」の線で捜査を進めたはずです。しかし、すぐに困難さに気がついたのではないでしょうか。なにしろ、現場から持ち去られたものは何もない、死体には、ためらい傷一つなく胸を一突きに殺している。つまり、殺すことだけを目的にした犯行で、簡単にしっぽを出すとは思えない犯人像なのです。
 そんな捜査陣の前にあったのが別件でした。「二つの別件と代用監獄を使って締め上げれば、他の事件と同じように片岸さんを落とせる」と確信したかどうかは分かりませんが、いずれにしても、捜査陣はこの線を選択しました。ところが、片岸さんの信念は強く、落とせませんでした。警察にとって思惑違いが生じ、やむなく、同房者A子を「でっち上げの犯行告白」作りの協力者として使う事になったのではないでしょうか。

3、同房者A子の供述と解剖鑑定医の死因の変更
 片岸さんと同房者A子は、6月18日から6月24日まで門司区の水上署で同房になり、7月15日から八幡西署で再び同房になりました。警察官の証言によると、6月の初めころ、同房者から会話内容を聞くという捜査方針を立てたそうですから、その頃には、片岸さんを落とせないと悟り、同房者・協力者の人選を始めていたものと思われます。
 結局A子に決められたのでしょう、本件特捜班の八幡東署(A子の所轄署)への依頼によって、A 子は八幡東署から八幡西署へ移され、再度の同房が実現したのです。この同房状態は、9 月27日まで続きました。
 この間A子は、余罪の取り調べ1 件の聴取を受けたのみで、もっぱら片岸さんの「犯行告白」作りに協力しました。そして「犯行告白」作りが終了した9 月27日、片岸さんは拘置支所へ移監され、10月3日殺人で逮捕、25日同起訴、同日放火で逮捕、11月16日同起訴と続き、一方のA子は、9 月30日に移監、11月12日に早くも執行猶予付きの判決をもらって釈放されています。結局、A子が片岸さんから聞き出したとされる「犯行告白」は「お兄さんを殺した」「殺したのは3月23日で、24日に火をつけた」「首を刺した後に胸を刺した」というものです。「23日に殺して24日に火をつけた」というのも不自然ですが、問題になったのが「首を刺した後に胸を刺した」という点です。
 解剖鑑定医は当初、死因は心臓刺傷に基づく出血性ショックと結論していたのですが、上記供述を受けて、持ち帰ってホルマリン漬けにして保存していた右総頸動脈を再鑑定して、死因を右総頸動脈切創に基づく出血性ショックに変更したのです。捜査陣はこれを「秘密の暴露」にあたるとして、殺人罪での片岸さん起訴の決め手としました。なんと浅はかで愚かしく、かつ恐ろしい行為でしょうか。
 当初から右総頸動脈に傷があったからこそ持ち帰ってホルマリンにつけて保存していたのであって、この事実は検案に立ち会った警察も承知していたはずで、秘密であるはずはありません。知っていればこそ、この事実に沿う供述をA子にさせて、見え透いた「秘密の暴露」を作ったに違いありません。しかし、この作られた「秘密の暴露」が、のちに彼らの「でっち上げの秘密」を世間に暴露する事になるのです。

4、弁護団の適切な対応
 この事件の弁護を担当したのは、黒崎合同法律事務所(所長・安倍千春弁護士)の田邊匡彦弁護士・横光幸雄弁護士・東敦子弁護士3名と秋月慎一弁護士(当時・北九州第一法律事務所、現・秋月法律事務所)の4名。かつて川上誠一さん(現・福岡県芦屋町町会議員)が交通違反を口実に派出所に連行され、派出所2階に監禁されて警察のスパイになる事を強要された「芦屋派出所スパイ強要事件」の国賠裁判の中心を担った事務所です。
 とりわけ田邊弁護士は、当時、安倍弁護士とともに「くどく・しつこく・いやらしく」をモットーに警察の違法行為を追及し、国賠裁判を勝利に導いた経験豊富な弁護士です。
 こうした経験はこの事件でも生かされました。弁護団は一日も欠かすことなく接見を続け、片岸さんを励ますとともに取調べの状況を把握し、「違法捜査中止要求書」の提出や勾留理由開示、同取り消し請求、同準抗告などを闘いました。そして、マスコミに対して必要な見解を表明し、捜査の違法性を伝えました。この事件の当初の報道が他の事件の様に興味本位のセンセーショナルなものにならず、極めて客観的なものになったのは、こうした弁護団の努力の成果だと思います。

5、知人・友人・ご近所のみなさんの驚嘆の支援活動
 この事件の支援活動で特筆すべきは、片岸家の知人・友人・ご近所のみなさんの支援活動だと思います。私たち救援会グループが支援の活動に加わった時、すでに「片岸兄弟を支える会」が組織され、旺盛な活動が展開されていました。大法廷が埋め尽くされ抽選になるほどの傍聴が組織され、満員の傍聴席から不当な長期勾留に対して抗議の声があがる場面もありました。
 早期釈放を求める署名活動では、救援会よりも早く3000 筆を越え、私たちをびっくりさせました。街頭でのビラ配布・宣伝・署名活動にも多くの方が参加されました。この方たちは、私たちの様に変に擦れていませんので、通行人を見て「どんな反応をするか」などと読んだりせず、どなたにも声をかけてお願いします。その積極性は、本当に感動ものでした。
 これまで、冤罪事件の支援活動などに縁がなかったであろうみなさんを、これほどまでに立ちあがらせたものは何なのか?「片岸さんは、そんな事をする人じゃない」「窃盗や威力業務妨害で逮捕するのも、なかなか釈放しないのもおかしい」「警察は、なんか変?」と思っていたところにA子の「片岸さんから犯行告白を聞いた」との供述が出て、みなさんは、「やっぱり…」と確信したのだと思います。
 この「やっぱり…」は、捜査陣のでっち上げを見抜いたことを意味します。片岸さんに対する信頼と捜査陣に対する不信と怒り、「片岸さんを助け出したい」と思う友人・知人としての感情と「こんなことを許したら、誰でも犯人にされてしまう」という市民としての理性的な判断が完全に合体して、国民救援会をも圧倒する「片岸兄弟を支える会」の支援活動を生みだしたのだと感じています。素晴らしい方々の素晴らしい支援活動に心からの敬意を表したいと思っています。

6、捜査と法医学鑑定
 みなさんご承知の通り、足利事件の菅家さんを有罪とした確定審での唯一の物証は、科警研によるDNA 鑑定でした。今回、このDNA 型が一致しないことが確認されて、釈放・再審開始へと進んだことは大変喜ばしい事だと思います。しかし、これだけだと「17 年間に鑑定技術が進歩し、やっと一致しない事が判ったんだな」と国民は受け止めるでしょう。
 事実はそうではなかった。雑誌『冤罪File』№8によると、当初から、科警研による鑑定で犯人を特定することを疑問視する論文が学会で発表され、科警研の担当者もこの学会に出席しており、この論文の存在も論旨も承知していた。一審の審理中は知らぬ顔をしていたが、一審判決の直後には間違いを認める論文を公表した。
 ところが、高裁でもこの間違いは正されなかった。弁護団は、拘置所にいる菅家さんから頭髪を得て、日大に鑑定してもらった。はっきりと「別人」との鑑定結果が出た。ところが、最高裁は「頭髪が菅家さんのものかどうか分からない」として上告を棄却しました。「菅家さんのものかどうか分からないのなら、自ら鑑定をやればいいじゃないか」と私などは思うのですが、なぜやらないのでしょうか。
 かくして、菅家さんの17年半が無残にも奪われたのです。もうこうなったら、科学者を装った科警研という権力とおごそかに法衣をまとった裁判所という権力の「共同の犯罪」という他ありません。
 私が、長々と足利事件の鑑定問題に触れたのは、「引野口事件でもそうだったら…」と考えると、寒気がする思いがするからです。幸い、引野口事件はそうはなりませんでした。3の項で少し触れましたが、この事件の鑑定について、もう少し報告します。
 前述したように、解剖鑑定医は当初、心臓刺傷による出血性ショック死を死因とし、死亡時刻については、「解剖を始めた3月25日午前8時50分より1~2日前と考えられる」と鑑定しました。この時の鑑定では、総頸動脈の傷については一言も触れていません。ところが、事件から4 カ月以上も経過した8 月になって、A 子供述を受ける形で再鑑定し、死亡時刻はそのままにして、死因についてのみ、右総頸動脈切損に基づく出血性ショックと訂正しました。つまり、捜査陣とA 子と鑑定医が協力して、「秘密の暴露」を作ったことになります。
 これに対して、弁護側の二人の鑑定人は、死因は心臓刺創による出血死。右総頸動脈の傷は火災により血液が膨張して血管の弱い部分を突き破って出来たもの。死亡推定時刻は2004年3月24日午後5時12分から午後5時56分の間の火災発生間もない頃。その根拠は気管支の肺門部までススが入っており、火災発生時に呼吸運動をしていたことを意味する、と完全に一致しており、明快です。
 実は、この鑑定についてはテレビ朝日の『ザ・スクープスペシャル』が独自に東京都監察医務院元院長の上野雅彦氏に鑑定を依頼し、その結果を放送しています。それによると、上野氏の鑑定は弁護側二人の鑑定を完全に裏付けており、死亡推定時刻についても「この所見は火災時に生きていた事を意味する。(火災時に死んでいたとする解剖鑑定医の鑑定について)法医学者じゃないんじゃないの!常識外の話!」と言葉を極めて酷評しています。
 捜査陣が、スパイA 子と法医学の権威を使ってでっち上げようとした「秘密の暴露」作りは、完全に失敗しました。「善玉法医学が悪玉法医学を駆逐し、法医学の真の権威を守った」と言ったら、単純で言い過ぎでしょうか。それにしても、同業者から「法医学者じゃないんじゃないの!常識外の話!」と酷評されるような鑑定のなんと多い事でしょう。とりわけ、えん罪事件において…嘆かわしい事です。

7、マスコミと事件関係者の関係…「正義と真実」を求める立場の共有をめざして
 2007 年6 月に前記『ザ・スクープスペシャル』が放送され、その後を追うように各社の報道がキー局・地方局を問わず続きました。片岸さんの長男・和彦さんがホームページやオルグで全国に発信し、新聞・テレビを問わず情報を提供し、取材を呼び掛け続けてきた事が実を結んだことを実感しました。
 4の項でも触れましたが、元々この事件は、興味本位のセンセーショナルな報道はされませんでした。しかし、だからといって最初から捜査や起訴を疑問視する報道があったわけでは、勿論ありません。むしろ、少し腰が引けているというのが実情ではなかったでしょうか。そんな中で和彦さんの働きかけが担当者に届き、心を動かし、取材に向かわせ、取材を通して真実を認識させ、報道に繋がった事を、私たちは学ばなければならないと思います。
 私たちは、よく「裁判官を飛躍させる」という事を口にしますが、考えてみれば、裁判官より先に、マスコミ関係者のみなさんと「正義と真実」をめざす立場を共有する必要があるのではないでしょうか?彼らをして、勇躍して「正義と真実」の報道に向かわせる、その極め付けが朝日新聞によるスクープ「警察に協力したから大丈夫、今度も執行猶予がつく」とのA 子の発言記事だと思います。
 警察に協力した報酬としてか、多くの余罪を立件されることなく、執行猶予付き判決で早々に釈放されたA 子を追って、A 子の再犯と起訴の事実をつかみ、国選弁護人を取材し、先の発言を聞きだした努力は、単にスクープを取りたい記者根性として片付けるわけにはいかない「何か」を感じさせます。マスコミのみなさんに、正義と真実を念頭に、やりがいを感じつつ仕事をしてもらう。その為に、私たちは何をすればいいのか、を考えて活動したいと思っています。

8、片岸和彦さんの職を辞しての活動と支援の広がり
 和彦さんは、地元の県立進学校を経て山口大学を卒業し、有名企業で働いていました。一般的に言って、前途有望な人生を送っていたわけです。和彦さんは、職を辞したことについて、「救援会に出会って、日本の刑事裁判の有罪率が99.9%を超える事を知らされて、大変なショックを受けた。 
 このままでは何もしていない母が実兄殺しの犯人にされてしまうという現実を前にして、職を辞してでも母を救い出したいと思いました」と語っています。退職した和彦さんの活動は目覚ましく、救援会の関係するあらゆる集会に参加し、26の都道県を駆け巡り、100か所以上の集会で訴え、事件の真相を伝えました。その成果は、訪問した先々から続々と届く「守る会」の申込用紙や署名で確認できました。
 和彦さんが全国をオルグで回った期間は、約1 年半ほどだったと思いますが、署名は43,000筆に達しましたし、一審判決の半年前から5000枚の目標で取り組んだ要請ハガキも7000枚を越え、たしかな支援の広がりに励まされる毎日でした。
 和彦さんは、こうしたオルグ活動の合間に、妹の典子さんと協力して、ホームページやブログを通じて、家族の顔写真を公表して真実を訴え、支援を願い続けました。ホームページへのアクセス数も多い日には300件を超えるまでになりました。励ましのメールもたくさん頂きました。
 その中には、「本当に悲しい話です。私は某国立大学で医師として医学教官として働いていますが、(引野口事件の)司法解剖の結果など、医学生が考えても、本当に信じられない話です。警察権力を使ってのでっち上げ事件であり、警察官や官僚は、検挙率などの数値目標のために、人道に悖ることを平気でやります。…中略…もう少しの辛抱です。きっと神様はいます。
 負けるな。絶対、みなさんに必ず明るい日が戻ります。僕も遠くからですが、応援しています。きっと全国の人も応援しています。」という様に、医学者として義憤を感じてのメールもありましたし、江川紹子さんは自らのホームページで、「(ホームページやブログで)被告人となった片岸さん本人だけでなく、その子供たちが顔も名前も公にして、母親の無実を訴えている。…中略…とりわけ息子さんは、勤めていた会社も辞めて、母の支援活動を続けてきた、という。日本では、身内が逮捕されれば、冤罪であっても、家族は顔を伏せてひっそりと暮らさざるをえなくなることが多い。そんな中、堂々と顔をさらして訴えを続けている姿には心を打たれる。」と紹介しています。私もまったく同感です。と同時に、片岸兄妹の訴えに応えて下さる、実に多くのみなさんが居られたことに、強い感動を覚えます。
 「真実」は壁を透して、片岸さんと家族と市民のみなさんと私たちを結び、大きな大きなエネルギーを発揮し、真実を守り抜きました。私は、そのエネルギーの中に身を置けた幸せを、今、しみじみと感じています。

9、毎週の街頭宣伝とシンポジウムの成功
 『片岸みつ子さんを守る会』の結成は、2007年(H19年)2月17日です。一審の無罪判決が確定したのが2008年3月19日、「無罪を祝う会」を開いて、会の解散を確認したのが同年5月10日ですから、会としては、1年2カ月の活動でした。
 一審判決を間近に控えていた事もあって、矢継ぎ早に課題に取り組みましたが、そんな中で心に残っているのが、07年6月から始めた毎週の街頭宣伝と07年9月に開いた「なぜ、えん罪は生まれるのか」をテーマにしたシンポジウムです。
 街頭宣伝は、事件の地元の最寄り駅『黒崎駅』前を中心に、毎週金曜日13時から1時間をめどに、無罪判決が確定して、お礼と報告のための宣伝まで9ヶ月間続けました。鹿児島の志布志事件や富山の氷見事件でのでたらめな捜査が明らかになった事とも重なり、市民の関心は大変に高く、ビラの受け取りも良く、署名も毎回100筆前後が寄せられましたし、わざわざ激励の声をかけて下さる方々も増えてきました。
 9ヶ月もの間、毎週の活動を支えて下さったのは、こうした方々の激励ではなかったかと、改めて感謝したい気持ちです。また、私自身は、現役のサラリーマンですので、ごく僅かしか参加できず心苦しかったのですが、忙しい中、毎回参加してくれた「守る会」のみなさんにも感謝の気持ちで一杯です。
 シンポジウムは、07年9月22日に、「片岸兄弟を支える会」と「片岸みつ子さんを守る会」の共催で開きました。まず、和彦さんと二人で企画(案)を練りましたが、二人が共通して考えた点は、「普段、救援活動に縁がないかもしれない幅広い方々にも参加してもらう」という事でした。
 この点を基本に、「守る会」の役員会で討議して、松本サリンの河野さん、鹿児島・志布志の川畑さん、富山・氷見の柳原さんと小林弁護士などの話題性豊富な方々に加え、国際人権活動日本委員会の鈴木さん(現国民救援会会長)・地元北九州大学法学部の朴教授・引野口事件弁護団の横光さんなど7名の方々にパネリストをお願いし、さらに、コーディネーターは「ザ・スクープスペシャル」などでキャスターを務めている長野智子さんにお願いする事にしました。交渉は和彦さんが行い、全員に快諾をいただく事が出来ました。
 結果を報告しますと、500名を超える市民のみなさんにご参加いただき、大成功を収めることが出来ました。これまで、北九州の救援会の集まりでは、結成20周年記念の「佐藤光政コンサート」で600名超の記録があるものの、この種の集まりでの500名というのは、夢物語であったわけです。その夢が現実になって、私たちもびっくりしましたが、同時に、事件の広がりが実感出来て、大きな自信にもなったシンポジウムでした。
 成功したのは動員数だけではありません。河野さんや川畑さん・柳原さんたちの取調べの実体験の報告は、その異常さ・違法性を認識するに十分でしたし、他のパネリストのみなさんの発言も、それぞれの専門分野での経験に裏打ちされた判り易くて的確なものでした。また、長野智子さんのコーディネートも見事なもので、短い時間内に、多すぎるパネリストの話を上手に引き出し、「どうすれば、冤罪をなくせるのか」という方向にまとめていく能力の高さに感心させられました。参加して下さった皆さんも「こんなことは許せない!」との気持ちを強くして帰られた事と確信します。

10、「控訴するな」の署名の取り組みについて
 一審判決まで1ヶ月足らずとなった08年2月の10日頃、我が家の居間で、和彦さんと二人、「残された期間、何をするか」の相談をしました。この時、私たちが企画した案は、①最後まで、無罪判決要請署名のお願いを続ける。②判決日までに、「控訴するな」の署名のお願いを、中央本部・各県本部を通じて全国に届けておく、というものでした。
 ①については、いわば普通の事ですが、②については、これまで聞いたことも見たこともありませんでしたので、若干躊躇しましたし、「裁判所を甘く見るな」のおしかりを受けることも考えましたが、思い切って取り組む事にしました。今になってみれば、法廷での検察立証に対する反証の成果やA 子の供述書の証拠不採用決定、シンポジウムの成功や街頭宣伝での市民の反応に見られる支援の広がり、明らかに捜査批判に軸足を置いたマスコミ報道の増加など、「無罪」を想定してもおかしくない状況にはあったと思います。
 しかし、「勝って、片岸さんを救い出そうね」とは言っても、具体的に「無罪」を口にすることは勇気のいる事だったのです。この時は、和彦さんと二人だけでしたので、つい気が緩んだのか、二人揃って「無罪…取れるかもしれないね」と言い合いました。そして夢が自然に広がるように「無罪取れたら… 一審で確定させたいね」とも言い合い、「よし、判決日までに控訴するなの署名の段取りをつけて、無罪判決が出たらすぐに取り組んでもらって、送ってもらおう」との決意へとつながったのでした。
 3月5日の判決は「無罪」でした。さっそく中央本部へ一報を入れて、各県本部への連絡をお願いしました。3日を経ずに全国から署名が届き始め、4日目の3月9日には2000を超える個人と120を超える団体からの署名が寄せられました。
 私たちは、寄せられた署名を各県ごとに集約し、検察庁への要請行動の度に、署名用紙の束を見せて集約用紙を手渡しました。この署名は、最終的に個人が一万筆、団体で500団体が寄せられ、検察庁の控訴断念に大きなインパクトを与えたと確信しています。一万という数もさることながら、判決から日を置かずして届き始めるという規律ある行動が全国で取り組まれた事に、彼らも驚嘆したのではないでしょうか。全国組織としての国民救援会の力を、改めて認識させ得たと思っています。
 私は、いまでも、この取り組みの事を語り始めると涙があふれてきて、しゃべれなくなってしまいます。全国のみなさんが、これほどまでに引野口事件に心を寄せて下さって、無罪判決を心待ちにして、その知らせとともに署名に取り組み、送って下さる。思い出すたびに、語る度に涙があふれる、これほどの感動を与えて下さった全国のみなさんに、改めて感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。本当にありがとうございました。

11、判決日の喜びと感動と私個人の反省
 判決公判を控えて、諸々の準備をして段取りを付けておかなければなりません。不当判決を想定しての準備も必要です。「無罪判決」を願いつつ、複雑な思いで、両方の準備をしました。判決日の2008年3月5日は寒さの厳しい日でした。みなさん厚手のコートに身を包んで、小倉北区の裁判所に駆けつけて下さいました。その数480名、加えてマスコミ各社のカメラやマイクを抱えたクルーで裁判所は騒然としていました。
 私は、直後の集会に備えて、外で待機していましたので、後で聞いたのですが、「殺人と放火については無罪」の主文が読み上げられた時、大きなどよめきと拍手が沸き起こったそうです。裁判長は、強くは制止しなかったようです。
 主文を確認した東敦子弁護士が法廷を飛び出し、廊下で待機していた会員から「無罪」の垂れ幕を受け取って外に出てくる、その間、何分かかったのでしょうか。私たちは、固唾をのんで玄関を見つめていました。来ました、東弁護士が走ってこちらに来ました。途中で、自ら待ちきれないように垂れ幕を広げました。「無罪」、途端にあちこちから悲鳴が上がりました。そう、あれは紛れもなく悲鳴でした。そのあと、大きなどよめきになって、支援者同士が抱き合って飛び跳ねていました。
 報道陣が東弁護士を取り囲んで、その場所が第一報の報告の場になりました。裁判所とは、「敷地の外で、」との打ち合わせになっていたのですが、制止する職員はいませんでした。私は、外に置いていた踏み台を急いで運び入れて、東弁護士に登ってもらいました。東弁護士は、目に涙をあふれさせつつも、必死に呼吸を整え、「無罪です。本件部分について無罪です」と毅然とした口調で報告されました。そこで、また、大きな拍手が沸き起こって、私の目からも涙がとめどなくあふれ続けました。
 私は、舞い上がっていました。嬉しさのあまり、皆さんと同じように、完全に舞い上がっていました。舞い上がった私は、そこで、大きな失敗をして仕舞いました。東弁護士への取材を終えた報道陣のうちの何社かが、事務局長である私にも談話を求めてマイクを向けてきました。中には、別件2 件の有罪判決につての感想を求める記者も居たのです。それに対して、私は適切な回答をする事が出来ず、「本件が無罪になったから良いんです」と答えてしまいました。あれほど、事件性のない別件での逮捕勾留を憎み、批判してきたのに、なぜ、「全く不当で不見識な判決です。こんな判決を裁判所が書くから、いつまで経っても、別件を悪用した自白の強要が続けられるんです」と言えなかったのか。いまでも、悔やんでも悔やみきれない気持ちが残っています。
 一方、法廷では判決理由の朗読が終わって、その場で片岸さんの釈放が実現し、そこでも、3年9か月ぶりの親子対面という感動の場面があったとのことです。その感動は、私たちの待つ「判決報告集会」会場に引き継がれ、大歓声の中で片岸さんを迎える事が出来ました。片岸さんの第一声は「3年9ヶ月、子供たちを守り支えて下さって、ありがとうございました」でした。私は、囚われの身である母が子を想い、その母を子が思い、救出のために人生をかけて闘う、この濃密にして麗しい母と子の関係を、おぞましい「えん罪」が演出する皮肉を、改めての捜査陣への怒りの感情の中で見つめていました。
 「判決報告集会」は、途中で「控訴断念を求める市民の集い」に切り替えられ、要請決議を確認して、さっそく検察庁に出向きました。この要請行動にも100名近くのみなさんが参加して下さいました。検察庁も丁重に出迎えてくれ、寒いからといって、全員を庁舎に入れてくれました。代表団を編成して、別室で責任者に要請しました。「これ以上、片岸さんと家族を苦しめるな!」みなさん口々に思いの丈を伝え、控訴断念を迫りました。
 要請行動の後、片岸さんを伴って、9ヶ月間続けてきた街頭宣伝の場所・黒崎駅前で、無罪判決と片岸さんを取り返す事が出来たことを報告しました。何人もの方々が片岸さんに駆け寄って声をかけてくださって、喜びを共にしました。私は、半ば放心したような状態で、それを眺めていました。
 長くてハードな一日が終わりました。しかし、片岸さんを被告の身から解放するためには、さらに、2週間を要しました。この2週間の要請行動については、前10項でも触れたとおりです。2008年3月19日、検察庁が「控訴断念」を発表し、片岸さんはやっと「普通の人」に戻ることが出来ました。ちなみに、この日は、私の61歳の誕生日でした。私は、これから何年生存するかわかりませんが、誕生日の度に、この事件に関係したことで得た感動や教訓を思い返して、新たな決意の日にしようと考えています。
 全国のみなさん、警察と検察に法医学者も加わった悪辣なたくらみを、みなさんと私たちとマスコミも含めた国民の包囲網で、見事に跳ね返す事が出来ました。
 本当にありがとうございました。みなさんへの心からの感謝の気持ちを記して、この文章の終わりとさせていただきます。

2009年12月20日

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