えん罪事件の真相を広め、裁判支援、在獄者の処遇改善運動をすすめています

菅家利和さんのインタビュー

菅家利和さんのインタビュー

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 10月7日、21日からはじまる再審公判を前にして、国民救援会の「救援新聞」編集部と共同で、菅家利和さんにインタビューを行いました。以下に、その内容を掲載します。
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――菅家さんの小さいころはどんな子どもでしたか?
 小さいころからおとなしい子供だったらしいです。大人になってもずっとおとなしいまま続いたわけです。あんまりがぁっと言わないたちなんです。刑務所に入ってから少しは自分なりに変わったのかなと思います。口のほうが少し乱暴になったかなと思うことがありましたけれども、いまはそれも改めて静かに穏やかになってきています。

――コーヒーが好きだそうですが?
 コーヒーにうるさいというほどのことではなくて、好きだということなんです。日本茶も紅茶もありますが、なんといってもコーヒーです。コーヒーを好きになったきっかけは、缶コーヒーでした。あれやこれや試しましたが、自分としてはやっぱり、ポッカコーヒーですね。味が違うんですよ、やっぱり。いまはいろんな種類のコーヒーが出ていますね。釈放された後、他のものも飲んでみたんですが、やっぱりポッカがうまいです。ぜんぜん違うんです。他のコーヒーはうまいと思ったことないです。
喫茶店でブラックで飲むコーヒーも好きです。

――歌がお好きなようですね
 歌うことは好きですね。昔、メリヤス屋に勤めていたことがあって、そこで「菅家君、のど自慢大会に出てみるかい」と言われたことがあって、それがきっかけになりました。それは17、8歳のころでした。自分としては、歌はうまいほうだとは思わなかったんだけれども、歌をはじめてみたら面白くて、またやりたいなあと思うようになったんです。
 NHKののど自慢大会の予選にも出たことがありますし、TBSのボイスミュージックスクールのオーディションに行ったこともありました。

――この前ご一緒したカラオケでは、もっぱら橋幸夫さんでしたが
 それが一番多いですねえ。石原裕次郎もありますけど、ほとんど橋幸夫さんですねえ。昭和35 年の5月でしたね、デビューしたのは。そのころから「ああ、これはいいな」と思いました。私のレパートリーと言っちゃあなんですが、「いたこ」が好きですね。あと、「クツカゲトキジロウ」とか、「恋をするなら」、「霧氷」、「南海の美少年」、「いつでも夢を」でしょうか。
 千葉刑務所の中でも、年に1回のど自慢大会があるんです。刑務所には11 の工場があって、そこから代表が選ばれるんです。私は2票差で負けてしまいましたが。

――逮捕された当時はバスの運転手をしていましたね
 逮捕されたのは、幼稚園で送迎していた時の1年後でした。園長先生に「辞めてくれ」と言われました。それから1年間警察に尾行されたんです。でも自分はまったく気づきませんでした。まったく知らなかった。尾行されていたと後で聞いてびっくりしました。
 そして、平成3年の12月1日に任意同行で連れて行かれたんです。任意といっても実際は強制ですよ。朝刑事が来て、「お前、子どもを殺したな」と。自分は「やってない」と言ったんです。そしたらいきなりひじ鉄砲ですよ。「お前がやったんだ」と。それで、「今日は保育園の先生の結婚式に呼ばれていくんです」と言ったんですが、「そんなのはどうでもいい」というんです。ひどいなあと思いましたよ。自分は事件とはまったく関係ないんだから。いきなり警察がきて、いきなり連れて行かれたんです。有無を言わさず警察署に連れて行かれました。

――警察での取調べのなかで、どういう風に自白を迫られたのですか?
 警察に連れていかれて、「お前がやったな」と、また同じ事を言うんです。それがずっと一日続くんです。「やってない」と言っても全然受け付けてくれない。そして仕舞いには大きい声出されたり、机をドンドンとやられたり。「証拠がある」と言われましたが、こっちはやってないわけだから全然わけが分からないんです。具体的にどういう証拠があるかも言わないし。髪もひっぱられ、足も蹴られて。あれは暴力ですよ。そして「早くしゃべって楽になれ」と言われて。それで、夜10時ごろでしたか、自分は本当に疲れてしまって、「やりました」と言ってしまったんですね。ひどいもんですよ。
 結婚式に呼んでくれた保育園の先生に申し訳なかったですよ。釈放されてから、保育園の先生に会って謝まったんです。そしたらその先生は、「もういいんですよ。菅家さんのせいじゃないんですから」と言ってくれました。

――菅家さんは、第1審の裁判でも自白を維持していましたね。それはなぜですか?
 一審の公判途中までは、裁判でも「やりました」と言っていました。傍聴席に自分を取り調べた2人の刑事がいるんじゃないかとずっと思っていました。だから、裁判のときもずっとビクビクしていたんです。だからしょうがなく「やりました」と言ってしまったんですよね。

――裁判の途中で自白を撤回されましたが?
 当時、一審の公判の途中だと思うのですが、西巻さんという方が面会に来てくださいまして、「やってないなら、やってないと言わないとだめです」と言われ、それで本当のことを言おうと思ったんです。そのとき、自分に味方ができたと思ったんです。それから、ずっとやってないと言って貫いています。その励ましは大きかったですね。

――「やってない」と言ったにも関わらず、有罪判決を受けましたが、その時のお気持ちは?
 警察もダメ、検察もダメ、でも、裁判官なら分かってくれると思いました。警察の取調べで、「今言ったのと同じ事を検事さんに言え」と、言われたんです。それでそのまま言ってしまったわけです。そのときは警察と検事はグルだと思っていました。違いは分かりませんでした。でも、裁判官なら自分の本当のことを分かってくれるだろうと思っていました。
 二審のときからDNA型再鑑定をやってほしいという要求をしていたのですが、やってもらえませんでした。最高裁でも認められず、そのあと再審請求しましたが、5~6年かかったにもかかわらず、池本壽美子裁判長(再審請求審の宇都宮地裁の裁判長)は再鑑定をやらなかったんですよ。もう、そのときはがっくりきましたね。

――身体拘束されていた17年半、どんなことを考えていらっしゃいましたか
 自分には、弁護団の先生もいる、支援者もいる、だから「もうだめだ」と思ったことはないんです。本当に大きな力になりましたね。DNA型鑑定が却下されたのはがっかりしましたが、きっといずれは大丈夫だと思っていました。

――DNA再鑑定が決まったときの気持ちは
 「ああ、これはやった」と思いました。昨年の10 月に再鑑定をすることが決まって、翌年1月、血液と口の中の細胞をとって、提出したんです。そして5月に再鑑定の結果が出て、無実だということがわかったんです。そして6月4日に釈放されたんですよ。    
 その4日の日は、いつもどおり、朝8時に仕事が始まったわけなんです。そのあと、9時半ごろになって工場に処遇の職員が迎えに来たんです。「あれ、なんだろう。俺何も悪いことしてないのに」と思っていたんです。部屋に入って2時間近く待たされたんです。そして通知を見せられて、文書の上のほうを見たら「釈放」って書いてあったんですよ。捕まったのもDNA鑑定、釈放されたのもDNA鑑定ですから、複雑な気持ちです。

――再審公判が始まりますが、どんなことを調べてほしいと
 自分の17年半を無駄にしないようにしてほしいと思っています。それよりもこれから先の司法のあり方のことですよ。取調べの可視化ですが、弁護士の先生をつけてもらって、カメラで録画するときも、上、横、それからテーブルの下までカメラを置いて録画してもらわなきゃだめです。机の下で足を蹴られても分からないですから。
 政権交代して、新しい法務大臣の千葉景子さんが取調べの可視化を実現したいと言っていますが、取調べを録音・録画するときには、必ずはじめから最後まで録音してもらわなくちゃだめなんです。一部可視化じゃダメです。「やりました」って言ってるところだけじゃダメです。

――検察官が菅家さんに謝罪しました。それをうけて
 以前に警察が謝罪しました。おとといは検察が謝罪しました。そういう風にしてくれたのは嬉しいですけれども、私を取り調べた本人が出てこない限りは、自分は謝られても許す気持ちにはなれないんです。私の前に出てきて、腹のそこから謝ったならまだいいんですが、ところが全然出てこない。それでは絶対ダメ。それじゃ絶対許さないですよ。

――警察に言いたいことは?
 当時、どうして無実の自分を調べたのか説明してもらいたい。そして謝罪してもらいたい。どうして自分を犯人にしたのか。細かく説明してもらいたいんですよ。納得いくまで。謝って済む問題だったら警察なんて要らないんですよ。

――検事に対しては?
 検事は警察のいいなりですよ。私を取り調べた検察官に出てきて謝罪してもらいたい。17年半をどうしてくれるんだと言いたいですよ。

――自分を有罪にした裁判所、そしてDNA再鑑定も拒否した裁判所に対しては?
 一、二審、最高裁、そして再審の裁判官。この4人の裁判官に説明してもらいたいです。DNAの再鑑定をやってくれていれば、二審で5年くらいで終わっていましたよ。それが17年半も。裁判官にも本当に責任があると思っています。

――晴れて無罪となったら?
 仕事をやりたいですね。以前は子ども相手の仕事をしていましたから、運転でなくてもいいんですが、子ども相手の仕事をやっていきたいですね。それから自分と同じ冤罪で苦しんでいる人にも手を差し伸べていきたいと思っています。

――社会に出てみての感想は?
 刑務所にいたときより、自由は自由ですよ。もう二度とああいうところに入ってはダメです。自分の体も悪くしますし。足は弱る、体は壊す、なかには命を落とした人もいますから。
 刑務所の空気と外の空気は全然違うんですよね。刑務所の中に入っていますと、気持ちが暗いんですよ。どんよりしていました。釈放されてからは、同じどんよりした曇りの日でも、なんか違うんです。やっぱり自由な世界ですよね。人間は自由じゃないとダメなんです。中入ってからつくづく思いました。やっぱり人は自由じゃなきゃダメだって。もう大変でしたね。

――これまで支援をしてきた国民救援会の会員に対しては
 国民救援会の人たちには、本当に感謝しています。本当にありがたい気持ちです。こういう方たちがいるから自分たちのような冤罪被害者は救われています。自分の気持ちが大きくなりました。救援会のみなさんがいなければ、救われなかったと思います。救援会の方が面会に来てくれたり手紙を書いてくれたことは、すごく力になりましたね。「私たちは菅家さんの味方です。私たちもがんばりますから、菅家さんもがんばってください」という励ましの手紙がたくさん来ていました。どの手紙も印象に残っています。
 刑務所の中にいると、手紙は本当に嬉しいです。いままで何百通も来ましたが、多くの方に支援してもらっていることが手にとって実感できました。手紙っていうのは大きいですね。

――菅家さん、いまの生活はどのように?
 ラーメンが好きですから、そんなものばかり作って食べています。洗濯も洗剤を使わないで、自分でもみ洗いしています。いまは横浜に部屋を借りて暮らしています。時間も不規則です。7時ごろごはんしてみたり、9時ごろごはんしてみたり。でも、自然に目が覚めちゃうんです。刑務所は6時半起床なんですが、5時か6時には起きてしまうんです。

――日中はどんな生活を
 自転車でデパートへ行ってみたり、横浜まで足を伸ばしたりしています。そして、依頼があれば、他の冤罪事件の支援集会なんかに顔を出しています。こないだは、布川事件の現地調査にも行きました。自分と同じような境遇の人はたくさんいますから、そういう人のために支援していきたいと思っています。

――食事は自分で?
 もやしと野菜が一緒になったパックを買ってきて炒めてみたり煮てみたりして食べています。三食自炊しています。

――刑務所と比べて
 ほんとうに自由ですよ。刑務所はもう規則、規則で。朝6時半にピシっと起きて、夜寝るのも9時ですよ。そうすると、テレビでもなんでもそうですが、8時54分にパチッと
消えちゃう。もうねえ、スペシャルがあるときなんか困っちゃうんですよ。半分しか見ることができない。「ああ、いいところなのに」なんてね。いまはもう夜更かししてでも最後まで見ちゃいますけどね。

――17年半ぶりの社会は変わりましたか?
 釈放後、地元足利に帰ったわけですけれども、建物がなかったものがあったり、あったものがなかったり、道路の幅が狭くなったなあという気がしました。まわりがビルになったからでしょうか。ただ、お寺だけは全然変わってませんでしたね。
 私が生まれ育った場所は、もうないそうです。あったものがないなんて、不思議というか、複雑ですね。でも、無罪をとったら、足利に帰りますから。

ありがとうございました。

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