えん罪事件の真相を広め、裁判支援、在獄者の処遇改善運動をすすめています

32年をかけての雪冤の闘い 徳島ラジオ商事件を語る

32年をかけての雪冤の闘い 徳島ラジオ商事件を語る

塀本 信之

 山田さんに執筆して頂いた「再審・冤罪事件と日本国民救援会」が終了し、今号から、過去実際にあった再審・冤罪事件に取り組んだ方に、その思い出やどのような思いで取り組んだか、またその教訓は何かなどを自由に書いて頂こうと思います。今回は、徳島ラジオ商事件について、塀本信之さんに執筆頂きました。

事件の概要と渡辺倍夫さん

画像の説明

 徳島ラジオ商事件を語るとき、渡辺倍夫(わたなべますお)さんをぬきに語ることはできません。渡辺さんは事件の被害者富士茂子さんの甥に当たります。事件の3年前、茂子さんの長姉富士千代さんの娘と結婚したばかりでした。事件の朝、1953年(昭和28年)11月5日茂子さんの弟富士淳一さんから電話を受け、自転車で現場の三枝電気店に駆けつけました。徳島駅にほど近い八百屋町の現場は新築中で、工事のやぐらが組まれていました。やぐらのあちこちには血痕が付着、すでに警官によって立入が禁じられていましたが、被害者の身内と言うことで渡辺さんは現場に立ち入ることができました。
 富士茂子さんは内縁の夫三枝亀三郎さんと娘のK子さんの3人で工事現場の隣の旧店舗の奥四畳半の和室でやすんでいました。その日の早朝五時頃、何者かが押し入り、夫亀三郎さんを殺害、茂子さんも重傷を負いました。
 警察は当然のこととして外部からの賊の侵入と見て捜査。容疑者二人を逮捕送検しましたが、検察庁はこれを不起訴にして、予断と偏見に満ちた独自捜査で内部犯行説をでっち上げたのであります。
 手段は実に巧妙です。54年(S29年)7月、まず住み込みの店員N少年(当時一七歳)を有線電気通信法違反で逮捕。翌8月には同じくA少年を銃刀法違反の容疑で逮捕し、長期の勾留のすえ「事件の朝、物音で目覚め、4畳半をながめたら奥さんとご主人の争うのが見えた。」との、嘘の供述を得、8月13日富士茂子さんを逮捕。富士茂子さんは一貫して容疑を否認、しかし、長期勾留の疲れから一度だけ「やりました」と供述、この供述と2少年の自白のみで、徳島地検は富士茂子さんを起訴したのであります。
 マスコミは事件をおもしろおかしく伝え、検察官の筋書きを誰一人疑うことのない雰囲気を作り出し、裁判所も、2少年の供述を信用して懲役13年の刑を下すのであります。控訴審でも破れ、上告中の58年(S32年)「裁判費用に多額のお金が必要でこのまま裁判を続ければ、先妻の子ども達や娘の教育費がかさむ。自分は服役し、出所後真犯人を捜す」として、突如上告を取り下げました。

2少年が偽証を告白
 正義感あふれる渡辺倍夫さんは、家族とともに当初から富士茂子さんの無実を信じ、公判もすべて傍聴し、事件の真相を晴らそうと思っていました。
 茂子さんが上告を取り下げたその日、静岡県の沼津署に真犯人と名乗る男が自首、新聞にも報道されてこのことを知った渡辺さんは、意を決して上京します。しかし、上告審を依頼済みの弁護士には相手にされず、途方にくれている中、事件のことを詳しく研究してくれていた共同通信の斎藤茂男記者を思いだし、訪問。斎藤記者は沼津署にも同行し、詳しく取材し、改めて当時日弁連の人権擁護委員長の津田騰三弁護士を紹介、こころよく弁護を引き受けた津田弁護士との再審に向けた闘いが始まるのであります。
 N・A両証人さえ真実を述べてくれたら、無実が晴れると確信した渡辺さんは、足しげく二人を訪ね、遂にA少年が偽証を告白、N少年も続くという画期的な出来事に遭遇するのであります。
富士茂子さんと渡辺さんは二人を偽証罪で告発。しかし検察庁はこれを不起訴とし、検察審査会に申告し、審査会は起訴相当の結論を出しましたが、検察官は起訴せず、三度の再審請求も棄却されました。

支援の広がりー特に文化人の中に
 この間、渡辺さんの努力は各方面に反響を呼び、共同通信の斎藤記者の努力とあいまち事件を真剣に研究する文化人が続出しました。徳島出身の作家瀬戸内晴美(後に寂聴)さんは、1960年(S35年)婦人公論2月号に「恐怖の裁判」という題で事件を詳しく書きつづりました。5年後同誌に「富士茂子の獄中の手紙」を発表。「恐怖の裁判」は71年(S46年)読売新聞社から出版されました(S53年に再版)。作家開高健さんは「片隅の迷路」(角川文庫)を書き、これを原作として山本薩夫監督が映画「証人の椅子」を映画化。青地晨さんは社会思想社から「冤罪の恐怖」を出版しました。
 78年(S53年)東京で出された支援のアピールには次の方々が名を連ねています。青地晨(評論家)・家永三郎(歴史学者)・池田みち子(作家)・市川房枝(参院議員)・石垣綾子(評論家)・伊藤武郎(映画制作者)・大原富枝(作家)・神近市子(元衆院議員)・開高健(作家)・北林谷栄(女優)・木下順二(劇作家)・小夜福子(女優)・瀬戸内晴美(作家)・奈良岡朋子(女優)・松本清張(作家)・丸岡秀子(評論家)・三宅艶子(評論家)・山本薩夫(映画監督)。

富士茂子さん仮出所
 1966年(S41年)改悛の情なき模範囚富士茂子さんが刑期を2年残してやっと仮出所しました。早速N・A両証人と面談し、その模様は朝日放送テレビの正賀記者によって、映像として記録され、報道されました。
 富士茂子さんはこの事実を証拠に4度目の再審を申し立てました(68年―S43年)。国民救援会徳島支部もはじめて支援のための集会を開き、再審を求める会も結成されたのですが残念ながら大衆的な運動にまで発展できませんでした。裁判所も、再審請求を棄却。大きな挫折が関係者の中にひろがりました。

白鳥決定と国民救援会の支援決定
 それからあしかけ10年の歳月が流れた1977年(S52年)会員500名を要するまでに発展した国民救援会徳島県本部は最高裁判所の白鳥決定や、弘前事件、加藤事件、米谷事件の再審開始と無罪判決を受け、徳島ラジオ商事件を学習し、支援する活動に本腰を入れはじめました。毎月開かれる常任委員会で事件学習を繰り返し、無実の確信を深めました。
 いくら頑張っても裁判所は分かってくれないと嘆いていた富士茂子さんも、救援会のメンバーの説得でようやく5度再審の扉をたたくことを決意し、救援会も全力を挙げて支援する決意を固めました。
 同年10月30日開かれた県本部大会では、事件の支援を決議し、富士茂子さんも壇上から訴えました。マスコミも1審当時の報道姿勢の反省を受け、地元徳島新聞はデスク級の記者を専任で配置、各社もこれに続き、富士茂子さんの訴えの時は多くのフラッシュがたかれ、翌日は大きく報道されました。

日弁連の支援と大弁護団の結成
 日本弁護士連合会も再審事件としては第1号の支援を決め、西嶋勝彦弁護士を委員長に徳島事件委員会が発足。国民救援会県本部は事件発生と同じ11月5日早朝5時に、今はガソリンスタンドとなっている当時の三枝ラジオ店と同じ場所で、現地調査を実施(77年)。徳島事件委員会に属する地元弁護士をはじめ、再審弁護団の中心となって頑張る弁護士も参加し、マスコミもこれを大きく報道しました。

五次再審請求
 和島岩吉元日弁連会長を団長とする大弁護団は、1978年(S53年)1月31日徳島地裁に第5次の再審を請求しました。
当時の救援新聞徳島県版は次のようにその模様を伝えました。
「一月三十一日午後二時、救援会員五十名が待ち受ける地裁前に富士さんが着くと大きな拍手が起こった。富士さんは「よろしくお願いします」と支援者のひとり一人に頭をさげ支援にこたえていた。
京都から駆けつけた瀬戸内晴美さん、準備会の大関花子さん、渡辺会長、和島団長ら弁護団のひとたちに付き添われた富士さんが、地裁の石段に足をかけた時支援の拍手が再び大きくなった。」

再審を求める会の結成
 救援会は支援する独自の組織「徳島事件の再審を求める会」の結成のため全力を挙げました。今までつながりの薄かった文化人や主婦に役員をお願いし、当時家裁の調停委員を務めていた大関花子さんを会長に、主婦で独自の女性組織を作って活躍していた久野真江さんを事務局長に迎えることができました。
78年9月に正式に結成された求める会は当面会員を1000人にすることを決め取り組みました。

瀬戸内寂聴さんの大講演会成功
 まだ準備会だった求める会は、78年2月17日瀬戸内晴美さん、青地晨さん、和島岩吉さんを講師に有料の大講演会を開きました。瀬戸内さんは徳島の人間はけちだから、お金を払ってまで話しを聞きには来ないと心配しておられましたが、関係者、特に富士茂子さんご本人のかいがいしい努力で、1000人を集め、感動の拍手と涙に満ちたいい集会となりました。

リーフ・パンフの発行
 求める会では三つ折りの詳しいリーフレットを発行し、事件の真実を広げる大きな役割を果たしました。この原稿は救援会役員の学習の成果が発揮されたもので、すべて役員が執筆しました。
続いて500円の有料パンフレットを発行。これも、役員の執筆によるもので、編集は徳島新聞労組の元役員が徹夜で仕上げてくださいました。
 この二つの武器は事件の真実を広げる上で大きな役割を果たしました。

全国現調で支援を全国に広めました
 救援会と求める会は救援運動の歴史に学び、現地調査をこの年から毎年事件発生の11月5日に開いて支援の輪を全国に広げました。
 前夜は泊まり込みで事件学習と交流、当日は4時起床で現場を再現した小屋での視認実験というハードな日程でしたが熱心に取り組まれました。

富士茂子さんの死去
 病魔が富士茂子さんをおそいました。すい臓ガンです。1979年(S54年)5月に入院した富士茂子さんは、手術によりすい臓結石を摘出したにもかかわらず、ガンが転移。その年の11月15日帰らぬ人となってしまいました。無実を叫んで25年の年月でした。

裁判継承人
 救援会と求める会ではなんとしても再審裁判を続け、無罪を勝ち取りたいと弁護団と相談し、請求人の心神喪失による裁判継承人の許可を裁判所に求めました。
 富士茂子さんの姉弟妹の4人のかたが継承人を承諾。裁判所もこれを認め、審理は続けられました。
 会でも、富士茂子さんの遺志を継ぎ再審開始への決意を新たにするため追悼講演会を急きょ行いました。講師は市川房枝さん、山本薩夫さん、青地晨さん、三宅艶子さん、奈良岡朋子さん。司会は徳島出身の新劇俳優新田昌玄さん。瀬戸内晴美さんもメッセージを寄せました。会場一杯の800人が詰めかけました。

再審開始決定
 再審裁判は非公開の審理が続きますが、救援会と求める会は裁判の度に学習報告集会を開き、弁護団から審理の報告を受け、その都度機関紙「さけび」で会員と市民に審理の状況を伝えました。
そして結審を迎えた1980年には7月から毎週日曜日徳島市の繁華街新町橋のたもとにたって宣伝と署名活動を繰り広げ、その年の阿波踊りには全国現調を行い、全国の仲間五〇人とともに踊り見物の人々にも訴えました。
 そして12月13日、徳島地裁は、見事な再審開始決定を下したのであります。検察の抗告は阻止できませんでしたが、高松高裁でも抗告棄却を勝ち取り遂に全国初の死後再審が開始されたのであります。

無罪を求める会に発展
 会も名称を無罪を求める会に改称。無罪判決の署名活動を中心に活動を強めてゆきました。

死にもの狂いの支援活動
 渡辺倍夫さんは闘いの軌跡を「真実を求めて三十年」(木馬書館刊)との書籍にまとめ83年(S58)に発刊。
 無罪を求める会も専従者を置き、9月29日の第一回公判に備えました。公判前夜には7月に無罪を勝ち取った免田栄さんらと、瀬戸内寂聴さんを迎えて支援集会を持ち、盛り上げました。
 この事件の支援では、多くの著名な文化人が支援に名を連ね、地元では要所要所でこれらの方々をお呼びして支援集会が開かれ、それがマスコミを通じて大きく報道されると言うのが特徴でした。
再審裁判でも84年9月11日に山田洋次監督を迎えての支援集会が開かれました。この集会には共同通信の斎藤茂男さん、劇団民芸の日色ともゑさんも参加してくださいました。
 支援者も死にもの狂いの活動を展開しましたが、忘れてならないのが、請求人の方々の働きです。特に富士茂子さんの妹さんの郡貞子さんはその生活の殆どを支援の訴えにあて、頑張りました。
 判決が決まった85年5月からは「さけび」はがきニュースを3~4日おきに発行、運動の広がりを全国に伝え、無罪要請署名も12万5千筆を超えました。

ついに無罪確定
 1985年(S60年)7月9日徳島地裁は遂に無罪の判決を下しました。求める会ではどのマスコミよりも早く「さけび」判決号外を発行。徳島駅前でくばりました。
 7月19日検察は控訴を断念。あしかけ32年の長い長い闘いに終止符が打たれました。
 それにしても、検察官の予断で被害者である妻が犯人とされ、その雪冤のために、どれだけの苦労をしたことか。富士茂子さんとそのご姉弟妹、渡辺倍夫さんの苦労を本当に無にしないためにも、無実の人が犯人にされることがない世の中を作ってゆかねばならないと思うとともに、無罪を求めてたたかう人々をどこまでも支援してゆかねばならないと心に誓っています。

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